日本の国生みの神話でこんな話があります。
イザナギが 矛で
青海原をぐるぐると回転させると、
オノコロ島ができました。
島に下りたイザナギ は イザナミに
どんな身体を得たか尋ねました。
イザナミは
『あなたと違うところが一つある』
と答えました。
イザナギは 『私には あなたの体にないものがある。合体して国を作ろう』
イザナミは『それがいいでしょう』
と答えました。
二人は結婚の儀式を始めました。
男神は柱の左から下方へ螺旋回転し、
女神は 柱の右から上方へ螺旋回転し、
二人が出会うと 女神が先に『ああ、なんとご立派なお若い方でしょう』と言いました。
次に男神が『ああ、なんと美しい乙女だろう』と言いました。
二人が交わると蛭のような子が生まれました。気味が悪くなった二人は 子を籠に入れて海に流してしまいした。
それは 儀式で 女神イザナミが先に声を上げたからでした。二人が天津神に尋ねたところ、やはりそれが原因だとわかりました。
二人はオノコロ島の柱で また式を挙げました。
今度は先にイザナギが『ああ、なんという美しい乙女だろう』と言って、その後イザナミが応じると、14の島と 35の神が生まれました。
ただ、火の神カグツチを生むとイザナミはひどい火傷で死にました。これが最初の死です。
打ちひしがれたイザナギは 嘆き悲しみ、遺体を出雲の国境にある比婆の山に埋めました。
そして イザナギは 黄泉の国へ妻を探しに行きました。やっと見つけると『どうか戻っておくれ』と声をかけました。
しかし、黄泉の国の食物をすでに口にしたイザナミは躊躇しました。『神々に相談するからそこで待ち、私を見ないでほしい』と頼みました。
イザナギは長いこと待ちましたが我慢できず、彼女を探しに行きました。
暗闇で妻を見つけた彼は 驚いて後ずさりしました。妻の体は 醜く腐っていたのです。
『なんと不浄でおぞましい国だ』と
彼はうめきました。
イザナミは『約束を破って私に恥をかかせましたね』と言って彼を追いました。
洞窟から走って逃げるイザナギを
八人の醜い鬼女が追いました。
命からがらイザナギは あの世とこの世の境界線である黄泉平坂を走り抜け、通り道を岩で塞ぎ、イザナミと縁を切る宣言をしました。
怒ったイザナミは地上の民を毎日1000人殺すと言いました。岩の前で イザナギは 『愛する妻よ、それでは私は 毎日1500人を生ませよう』と言いました。
これが民の誕生と死亡の比率になりました。
黄泉の国から戻ったイザナギは身体を清めました。左目を洗うと天照大神が、右目を洗うと月読尊が、最後に鼻を洗うと素戔男尊が生まれました。
イザナギは『3人の子に恵まれた』と喜んだが、素戔男だけは 泣いてばかりいました。
イザナギが理由を尋ねると素戔男は『母が恋しいので 黄泉の国に行きたい』と言いました。
イザナギは怒って『そうしたいなら行きなさい』と追い払いました。
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この国生みの神話は ギリシャの
オルフェウスの神話とよく似ています。
女が男に従うところをイザナミが先んじてしまい、イザナギも 秘密の領域を侵してしまったように
アダムとイヴの物語でも、タブーを破ったことから世に死がもたらされたことが描かれています。
イナンナの冥界下り…など
世界各地の神話も
一度 地下世界(どん底)に落ちてから
再び 主人公は地上に戻る話が多くあります。
神が 大事な役目(仕事)を任せるとき
必ず その人を 奈落の底に突き落として
試している…のかもしれません。
初期の宮崎駿の世界観も
これらと 全く同じ 構造をしています。
たとえば、
カリオストロの城なら
ルパンが 城の頂上(天)から 一度
地下の奈落世界(死骸、闇) に落とされてから↓、
姫を取り戻すために 復活し 頂上に向かいます↑
天空の城 ラピュタなら
冒頭に シータが 天空から 地上に落とされ↓、
さらにパズーとシータが 地下世界に落とされてから 再び 天空の城に向かい始めます。
風の谷のナウシカの世界では、
放射能に侵された森(腐海)が広がっていますが
主人公は 腐海の底の底は 浄化された天国のような世界で、死の象徴だった腐海の木々は 実は 人間が汚した毒を 体に取り込んで 綺麗な結晶にしていることに気づきます。
神話やこれらの作品に共通するのは
主人公たちが 大いなる気づきに到達するのは
地上にいる時でも 幸せな時でもでもなく、
底の世界(闇)にいる時でした。
人が生まれてくる時も
闇の産道を通って出てきます(親は陣痛を経る)
皆さんも人生が大きく変わる前に
一度 別離、引きこもり、病気を経験したり、
どん底にいる時に 大きな気づきだったり、
人生を変える経験をされたことないでしょうか?
そう考えると
人生も 神話も 時間感覚も
上↑下↓を行き来する 宇宙の構造と同じく、
トーラス構造になっているのかもしれません。
父権社会では、イザナミ(死、黄泉)や
イヴを悪く見てしまう傾向がありますが、
私たちが本当に探しているものは
上(天、理想、快楽、甘い世界)にではなく、
地の底だったり、闇(死)の中にこそ
隠れているのではないでしょうか?
実際 自我が死んで 眠っている間に
生命エネルギーが
復活しているのはなぜでしょう?
ちょっと考えてみてください。
最も 恐れていたものが
最も 探してるものじゃありません?