老いの先に訪れるもの | ホームホスピス われもこう

ホームホスピス われもこう

熊本にある介護施設「ホームホスピス われもこう」のブログです。

「NPO法人老いと病いの文化研究所われもこう」は現在二つのホームホスピスを運営しています。現在の入居者の皆さんはほとんど70歳以上の高齢の方です。最高齢の方は98歳のかたです。

 このような方々に対して、それぞれの家族の方々はほとんど例外なく一日でもご本人が長生きしてくれるように願っておられるに違いありません。

 ご家族のその願いは本心からのものであることは言うまでもありませんが、入居者ご本人がどう思っておられるかは、ご本人からもご家族からも聞こえてきません。家族にしてみれば、当然本人は一日でも長く生きることを願っているはずだ、という思い込みがあるかも知れません。ご本人の意識がハッキリしていて「私はまだまだ元気だ」と思っておられる場合など、一日でも長生きしたいと思っておられる方がおられるかも知れません。ケースバイケースです。

 ケースバイケースだと言い切ってしまえば、そこで思考は停止してしまいます。「われもこう」は、頭に「老いと病いの文化研究所」という言葉がくっついている点から推しはかっていただけるように、「老い」というものをどう考えるか、「病い」というものをどう考えるか、それをいつも基本に立ち返って考えることを目指しています。答えはそう簡単に引き出せるものではありません。けれども、根気づよく考え続けます。

 「老い」といえば、敬老の日が日本の社会ではいつの頃からか設けられています。誰も疑問に思いません。当たり前になっています。しかし、例えば200年前、300年前はどうだったのでしょうか。今の時代ほど「結構なこと」とは思われていませんでした。場合によっては高齢者から順ぐりに「姥捨て山」に連れて行かれ、数日分の食料が尽きたところで、ひとり「自然死」を迎えるということもあったようです。悲しいことですね。人権を守るという考え方がなかった時代のことです。

 時代とともに考え方は変わってきました。今では人権が、少なくともタテマエのうえでは最優先されなければならない、と見なされています。「姥捨て山」はすっかり過去の話です。老健施設や病院は現代の「姥捨て山」と主張するひとがいるかも知れませんが、それは一面的です。病院でも老健施設でも食事はきちんと提供されますし、病気になれば手当も受けられます。そして一日でも長く生きるようにいろいろなケアが受けられるようになっています。

 しかし、生きる価値が時間の長さだけで計られるだけでよいとも言えません。長さだけで決まると言うならばそれはあまりにも安易です。一日でも長生きすることが本当の意味で価値あるようにするためには、生きることの質がともなう必要があります。質とは何か、またその質が確保されるためには何をすればよいかが問われ続けられなければならないのです。

 「老い」とは「死」「終末」へのゆっくりとした助走です。その助走に伴走するのが家族や看護者・看護者であり、ケアの役割です。人生、20歳を過ぎればもう「老い」は始まっています。

 「死」の向こうに何が控えているのか、生の終わりへのカウントダウンに入る前に日頃から考えておく必要がありそうです。でないと、場当たり的対応では十分なケアはおぼつかず、苦しく後悔の多いものに終わってしまいます。

                                       南風