大分県中津市。大分県の北西端に位置する中津市には、あの黒田官兵衛が築城した中津城があります。その城下町に寺町という地があります。お城から歩いて10分程度のところにあるこの寺町周辺には、その地名の通り多くのお寺が点在しています。
その中に赤い壁の「合元寺」があります。
昨年の大河ドラマでもご存意の方が多いでしょう。
「合元寺」は黒田官兵衛のゆかりのあるお寺なのです。お寺といえば、土壁そのままであったり、土壁に白い漆喰を塗った壁であったり、木造の外壁であった事が多いようですが、この「合元寺」は赤い壁なのです。なぜなのでしょう。
さかのぼれば戦国時代に黒田官兵衛が中津城を居城としていた頃の話となります。
黒田官兵衛は豊臣秀吉の命をうけ、1589年、今の福岡県築上郡の豪族である城井鎮房を攻めていました。攻め続け、追い込んではいましたが難攻不落の城井谷城の攻略に官兵衛と長政親子は苦戦したのです。
そこで官兵衛は策を講じました。本領安堵と鎮房の13歳になる娘・鶴姫を息子の長政に嫁がせる事を条件に和議を受け入れさせたのです。
城井鎮房に関して詳しくはこちらを→クリック(http://
(城井家の城井谷城は難攻不落の谷城で、官兵衛・
その後、長政は、中津城で鎮房との酒宴を開きました。このとき官兵衛は城には不在。鎮房の息子・朝房を連れて熊本に遠征中でした。酒宴の席では、鎮房の護衛は200人程。和睦により疑う余地もなく少ない手勢だったことが伺えます。鎮房は家来たちのほとんどを中津城近くの「合元寺」で待たせたのです。
・・・鎮房は数名の家臣とともに中津城の中へ・・・
酒でいい気分にさせられた鎮房はだまし討ちを受け、亡き者にされたのです。
同時に、鎮房の家来や護衛のいた合元寺では、黒田勢の襲撃が開始されていました。200名ほどの鎮房・宇都宮勢はあっというまに全滅したのです。
同時に、鎮房の家来や護衛のいた合元寺では、黒田勢の襲撃が開始されていました。200名ほどの鎮房・宇都宮勢はあっというまに全滅したのです。
なぜ「合元寺」は赤い壁なのか。
実はこの戦闘の際に、激しく飛び散った赤い血がお寺の塀のあちこちに飛んで白い壁を赤い血の色に染めたそうなのです。その後、何度も白に染め直したようですが、その度に赤い血の跡が吹き出てくるため、仕方なく壁の色を赤くしたと言い伝えられているのです。
その後、
中津城ではその後、不吉なことが幾度と無く起こります。鎮房の幽霊騒動などとも言われましたが、あまりにも不吉なことが起こるため、城井鎮房を中津城内に祀り、城井神社を建てたのです。城井鎮房をご神体として祭り、黒田家は災いをどうにかしようと思ったのでしょう。
しかし実際は、作法形式ではどうすることもできません。こんなことで、許されるはずもないのです。鎮房からすれば、親と子を殺され、一家を滅亡に追い込まれているわけです。とても許せる事ではありません。黒田家に悪霊・怨霊として取り憑いたのです
見えない世界の存在、つまり因縁とはそんなに簡単に消えるものではありません。
さらにさまざまな禍いが黒田家に降り掛かり続きます。
黒田家は豊臣から徳川の世を上手く潜り抜けお家安泰のお墨付きも頂けたようです。
その後、中津から福岡入りして福岡城を築城して福岡藩として現在の福岡の町の礎を築いたのをご存知も方も多いかと思います。
その後、
福岡城下でも城井鎮房の祟を恐れ、城井神社を建立しています。
江戸時代に入り太平の世の中となりましたが、
当主の狂気で粗暴な性格の為、
(江戸時代の3代騒動の一つに数えられています。)
黒田騒動と福岡藩につきましては→こちら(http://ja.
その後も男子は、短命などが続出して血縁者での継続が難しくなり、外
私が住む土地は城井家と縁とゆかりがある土地です。
今でこそ、
地域に住む者にとって数百年の時を経ても黒田家に関する評判は良
昨年のお盆に赤い壁のお寺である合元寺の前を仕事で通りました。
お寺が点在する町であるため線香の匂いで街中が立ちこめていまし
赤い壁のお寺からは、うめき声が聞こえ、遺恨ともとれる罵声が聞こえてきました。
成仏されない兵の霊がたちこめています。
今は中津の城下町も整備され、
人見