TOBE第25回 「花の色」 | あべせつの投稿記録

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課題「桜」

 

花の色

あべせつ

 

 

 

--花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに 小野小町

 

 花残り月とは、よくぞ名付けたものでございます。その日、庭の桜はまるですべてを封じ込めるかのように、四月の空を覆い隠して咲き誇っておりました。例年ですと、とうに葉桜になっていようという頃合いですのに、稀有なことに花冷えが長く続き、桜雲を仰ぎ見る中での母の弔い上げとなりましたのでございます。

 そういえば、過ぐる日の葬儀の時も、このような遅桜でございました。時ならぬ狂い咲きも、母の仕業かと思いますと何やら可笑しく、読経の最中(さなか)というのに不謹慎にもつい忍笑をしてしまうのでした。

夕刻、義理筋の参列者たちが早々に引き上げますと、古い屋敷の中は伽藍堂のようになりました。ひとり残された私は片づけを終えると、喪服のまま庭に降り立ち、老桜を仰ぎ見ました。

月明かりの下、こぼれ散る花びらを見ておりますと、夢見(ゆめみ)(ぐさ)と異名した古人(いにしえびと)の気持ちがよくわかります。亡き母も、桜に夢見たひとりでございました。

 

幼い頃に戦禍でふた親を失いました母は、年老いた祖母に弟妹たちと共に育てられました。食うや食わずの戦後の混乱期をなんとか生き抜き、街にも活気が戻り始めましたのが二十二歳のとき。母は是非にと請われ、神戸は元町の呉服屋で売り子として勤め始めました。後帯の頃より、今小町と世間様から持て囃されていた母は、たちまち界隈きっての看板娘となり、一年も経たぬ内に多くの縁談が舞い込むようになったのでございます。

呉服屋の旦那さんのお引合せで、大阪の料亭の若旦那との縁談もほぼまとまり、「これでようやく赤貧の暮らしから、祖母や弟妹達を楽にしてやれる」そう思った矢先、母は結核に罹患したのでございます。当時、死病と忌み嫌われておりましたその病に、婚約は破談、勤め先からもお暇を言い渡され、その後は数年にわたる療養を余儀なくされたのでございました。

僻地の療養所で臥せる、失意の母を慰めましたのは病室の窓に覆い被さるように枝を伸ばした桜の古木でありました。

「桜はね。厳しい寒さを超えるからこそ、春に花を咲かせることができるのだよ」

主治医の言葉に、母は我が身を重ね合わせ、「いつか、きっと」と耐え忍ぶことができたそうでございます。

桜の盛りを三度越え、ようやく容体も落ち着いてきました頃、母は療養所を出ますとともに、自らを陰日向なく支えてくれていた若き青年医師、つまりは私の父と結婚をいたしました。

母の達て(たって)の希望で、祝言は本家の庭の満開の桜の下で行われました。病を乗り越えた母の美貌には一層磨きがかかりましたとみえ、賓客たちからの「まるで桜の化身」との賛辞に、母は酔いしれたそうにございます。

その後は長らくの間、安楽に暮らしておりました母を、再び悩ませましたのは、忍び寄る老いでありました。街で背なの曲がった老婆などを見かけますと、さもそれが自分にうつるかのように眉を顰め、ハンケチで口をおおい足早に通り過ぎるのでございます。

「ああは、なりたくない。ああなる前に死んでしまいたい」

 日頃より、口癖のように申しておりましたが、まさかそれが本気であろうとは知る由もございませんでした。

 三十二年前のあの日、夜半に母の姿のないことに気付いた父が、屋敷内を探し求めておりますと、庭の方角から妙に明るい光が差し込んできたのだそうでございます。いぶかしく思った父が、広縁の障子を開けて庭を観ますと、花明かりの下で桜の果実となりし母の姿を見つけたのでございました。

 知らせを受けた私は、まさかという驚きとともに、どこか心の奥底で「ああ、やっぱり」とも思ったのでございます。

 その前年の秋の日に、母は還暦を迎えておりました。 それでも冬を耐え、桜花爛漫の日までを待ちましたのが、いかにも母らしいことでございます。

 小野小町は落魄し、己の老醜を嘆きながら没したと申します。

--散り急ぐのは潔いのか、愚かであるのか。

 母に似ず、美貌に縁のなかった私には、到底わからぬことではありますが、晩年を亡き父の代わりに桜守をしながら暮らして参ろうかと思うのでございます。 完