「正見」の反省法
呼吸を整え、
心を調律し、
みずからの内に深く深く入っていく必要があります。
そして、
「みずからが仏と一体になった」
「大いなる光のパイプからエネルギーが流れ込んでいる」
と感じられるようになった段階で、
その日一日を生きた自分をまったくの他人だと考え、
その他人が見てきたことを、
第三者の眼で批判的に検討してみるのです。
『釈迦の本心』 P.67より
なかなか、社会人で正見の反省を持てる時間は少なく、実践は難しいといえます。
これができる人は、100人に1人いればいい方だと思います。
その中で、努力して、この反省法を身につけたり、勉学することが修行だと思いますし、凡事徹底なんだと思います。
少なくとも、一個人を簡単に非難したり、批判したりする人は、まず、この反省ができないと見て良いと思います。
それは、その人を第三者の眼で見て、恥ずかしいなと思うからです。
人様が恥だと思うことを平気でしていて、反省ができているとは到底いえないでしょう。
その恥ずかしさが、その人には分からないので、正見ができてないことが分かります。
また、自己宣伝が過ぎる人も、正見ができてない人の代表格といえます。
過去に偉人の子孫であったという自慢を聞いたことがありますが、それについても、霊的観点からいっても、まったくその人と関係がありませんし、初見で可哀想だなと思ったものです。
修行は厳しいものです。
たいてい人は夜郎自大になるものです。
私は自慢しないですが、自慢するとしたら・・・、●●一種試験をパスしたことかなぁ。
言いたくないことですが、恥の部分ですね。
これが最後です。
第三者から見て、はっきりとしているからいいかも?
あまり、やはり良くないでしょう?自慢は?
聴いてて気持ちいいもんだったですか?
気持ちよくないに決まってます。
だから、自慢は止めましょう。
(やはり恥なので、後から●●にしました。)
だから、第三者の眼で批判的に想いや行為を点検することが大事です。