終戦から67年…
これは私の母が
15歳の時に書いた。「思い出の記」です。戦争の事も書いてあります。
私の祖母は母親が七歳の時に亡くなりました。二十八歳で……
今なら治療法がある結核です。
母親は良く秋は物寂しいと言ってましたが。この冊子を母親が亡くなってから渡された時に初めて意味がわかりました。
この文章は半世紀を経った冊子は粗末な紙で生徒の手によるガリ版刷りで今にもバラバラになりそうな冊子を母親の同級生が甦らせて冊子にしてくれました。
秋……
何となく物寂しい秋。私はこの季節が一番好きです。
何て云うか、この季節は私の身体にぴったりしている様です。この季節には数々の思い出があります。楽しい事につけ、苦しい事につけ、今も尚思い出すのは母の事です。幼い時よく母に連れられて静かな所へ行くのを唯一の楽しみとしてました。私の母は元々身体の丈夫な方ではありません。それにあの嫌な戦争です。或る大雪の降る日、私は寒さと恐ろしさにすぐ下の弟と震えて居ました。そこへ母が飛んで来て「早く防空壕へ入るんだよ」と家の庭の隅に掘ってある防空壕へ私達を追い立てました。しばらく静かにして居るうち、私は何時の間にか眠ってしまった様です。起きた時はもう暗かったと思います。その頃から母は衰弱して来たと様に思われます。私がいくつの時だったかは忘れましたが、ある秋の寒い日、母は病院に行って来ると出掛けて昼頃帰って来ました。その時の母の顔は一生忘れられません。「ただいま」も云わず、縁先へころげる様にべたっと座り、顔を上げませんでした。私がおろおろして母の傍に行くとやっと気が付いた様に私の頭をなぜてくれました。私はほっ
としたのと、母の顔色を見た時の驚きで、思わず涙が出て来ました。母は私の様子に気が付いたのか、にっこり笑いましたが、又それっきり黙って自分のレントゲンを見つめて居ました。その時から母はずっと寝ついてしまいました。母は物静かな人でした。父が小言を云っても黙って聞いて居ました。でも私達姉妹喧嘩なんかするととても怒り、二、三回なぐられます。それから神棚の前に座らされ、涙声で私に云い聞かせるのでした。私はそんな時つくづく母を恐ろしく感じました。でも普段はとても可愛がってくれます。私の七つの秋でした。或日母は五目が食べたいと云いました。その当時はあまり食物が出回っていなかったせいか、父が方々へ買いに行き、お昼頃やっと私のおばあさんが五目飯をこしらえて母に食べさせました。平日はお粥しか食べられないのにその時に限って二膳も食べました。それが最後だったのか、その晩皆に見送られて息を引き取りました。私は思わず下を向き、弟の無心な寝顔を見たらどっと涙がほほを伝わりました。その当時は必ず又母が帰って来ると信じ
て居ました。いえ、信じたかったのです。今でも苦しい事があると、あの静かな母の墓へ行きます。そうすると母の顔が瞼に浮かび、にっこりと笑っている様です。でも私は決してくじけません。立派な人間になります。何時迄もお空から見守っていて下さい。
今なら食べ物も豊富にあります。
戦争中は食べ物もない時代…
その中で食料を集め
五目飯を作るのは大変だったと母親から聞かされました。
私の母親の父親は新橋で店をやって居て料理の職人でした。
男手1人で四人の子供を育てたそうです。
世界平和を祈ります。