大学生のころの私から④私のマスコミ観 | 言葉を紡ぎ、想いを奏でる〜占い鑑定師あかねのブログ

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※2023年夏より再スタート♪

占星術やカードによる「占い」で
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無意識の「呪い」を解除して、いまココの迷いや悩みを解決する
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下書きに埋もれていたので、
まだ浅いところにあるうちに(笑)
発掘( ^ ^ )/□


個人的な覚書の備忘、
最後のひとつは。

パッと読んだだけだと
自分でも

え?・・・むむっ?(ー ー;)


で、読み返して

あぁっ!・・・だね( ̄▽ ̄)

なシロモノですが(^_^;)


いままた、このタイミングで
私の目の前にでてきたことこそ、

なにか意味がありそうだ・・・と
思えるものでした。


ということで、

備忘、備忘〜♪


+++++


メディアが送り出す情報は、現実そのものではなく、送り手の観点からとらえられた「ものの見方のひとつ」に過ぎない。
事実を切り取るためには、常に主観が必要であり、また、何かを伝えるということは、裏を返せば、何かを伝えない、ということでもある。
メディアが伝える情報は、取捨選択の連続によって現実を再構成した恣意的なものであり、特別な意図がなくても、制作者の思惑や価値判断が入り込まざるを得ないものだ、という前提は、広く共有されているのか。
ここから、取り組んでいくことが必要なのかもしれない。



情報は、古くなると情報でなくなる。
マスコミが流す情報は、すでに陳腐化しているものが多いのだとしたら。
古い情報を反復し続けることは、皆が同じ情報を共有していることを確認するためだけの、「同じ共同体に属することを確認して安心する」ような役割を担っているだけ、なのかもしれない。
情報の送り手と受け手が相対峙するのではなく、まったく同じ方向を向いている、一体化した関係は、正直なところ、恐ろしいものを感じてしまう。



戦争における報道のあり方や流れを見ていくと。
「非常時」になってから行動しえなくなった責任よりも、それ以前、報道の自由のための戦いが十分でなかったことの責任のほうが大きいのではないかと、私は思う。



<戦争プロパガンダ 10の法則>by.アンヌ・モレリ(草思社)
「われわれは戦争をしたくはない」
「しかし敵側が一方的に戦争を望んだ」
「敵の指導者は悪魔のような人間だ」
「われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う」
「われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる」
「敵は卑劣な兵器や戦略を用いている」
「われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大」
「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」
「われわれの大義は神聖なものである」
「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」


<パニックを予防する情報の流し方>
(1)何が起こったか、わかっていることは何か、わかっていないことは何かについて、誰に対しても等しい内容を伝達する。提供する情報を相手によって差別しない。
(2)推測はまじえず、事実と気休めとを一緒にしない。
(3)脅威に対し打たれている対応策を詳しく伝える。
(4)個人にできる自衛策を具体的に説明する