長崎の列福式に出てみて | Gabrielaの小さい幸せブログ

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時には愚痴もあるかもしれないけど、ほっとするブログにしたいと思っています。

気がついたらずいぶんとご無沙汰になっていて自分でびっくり。
アメーバパーティの事も長崎の事も中途半端になっていて、これまたびっくり。

長崎では188名の列福式に出ました。
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厳かに列福式、殉教188人福者に 長崎で国内初、信徒ら3万人参列
(以下一部転載)

キリスト教が禁じられた江戸時代、本県など全国各地で処刑された「ペトロ岐部と百八十七殉教者」をカトリック教会が「福者」とすることを宣言する列福式(ローマ法王庁主催)が二十四日、長崎市松山町の県営ビッグNスタジアムで国内では初めて開かれた。国内外から参列した信者ら約三万人が、信仰に殉じて福者となった百八十八人を祝った。

 一九八一年に来日したローマ法王ヨハネ・パウロ二世(故人)が殉教者の顕彰を呼び掛けたのを受け、日本の司教団が初めて列福運動を主導。殉教者の調査など二十数年にわたる運動が実り、法王ベネディクト十六世が昨年六月、列福を承認した。

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聖人になる一歩手前の式。
日本では初めてとなる大掛かりな式でした。

キリシタンに興味を持ったのは、友人のお祖父さんが五島列島の出身で、水攻めの刑にあったと聞いてから。
それから色々本を読んだり、長崎の友人からいろいろ聞いていました。

それにしてもよくもまあ、これだけの拷問を考えついたと思う程。
これは中国とか韓国とか(真偽についてはいろいろ言われているようですが、それでも)沖縄とかで日本がやった残虐的な拷問方法は聞いているだけで恐ろしくなります。

キリシタン弾圧でも世界稀に見る残虐ぶり。
デコボコの板の上に正座をさせて、その上から厚い板を何枚も乗せて行く、逆さつりにして頭を土に埋める、逆さ吊りにして耳をそぎ落とし、出血死させるなどなど。
お母さんと子供が一緒に火あぶりになったとか、指を切断されたとか。

今回選ばれた人々は家族が多く、当然子供も一杯いたようです。

「ペトロ岐部と187殉教者列福式」ミサ説教

1歳から4歳までの子供が29人も含まれていると知り愕然。
子供を守る母親の様々なエピソードがあちらこちらから聞こえてきました。

私は正直、命をかけた信仰と言う面では、なぜそこまで信仰を守り、命を落とさなければならなかったのか、答えがみつかりません。
簡単そうでいて難しい問題です。

信仰の為に命を捨てられるか?と聞かれたら、私は弱いので、ごめんなさいといいながら、きっと踏み絵を踏んでしまうと思います。

ただ今回の長崎の旅行で、そうした負のDNAを自分もまた受け継いでいるんだと感じました。

学校でのいじめも本当に残虐。
宗教弾圧もいろいろありますが、その残虐性に驚き、日本人はもしかしたらそうしたDNAを多かれ少なかれもっているのかも??と肯定して、そこからこうした歴史を繰り返さない為になにをしたらいいのかを考えて行く必要もあるのかなと思いました。

変にいじけるとかそういう話ではなくて、前を見る為に負の歴史を肯定する事は大切なのではと思うのです。

もちろん、今の私にはそうやって残虐に人を制する方法が思い浮かびません。
でも時代が違っていたら、もしかしたら私は誰かを罰する側にいたのかもなんて思いました。
自分の身をまもる為にそうした事をしなければならなかったと言う事もありえるでしょう。

私はカトリックの洗礼を受けていますが、すっかりと教会から離れてしまった人間。
でもこうした人々の犠牲の上に、キリスト教が成り立って自分もキリスト信者になったんだと深い感銘を受けました。

よく「行く年来る年」で長崎の教会の信者さんが白いベールをかぶっているのをみかけた事がおありかと思いますが、東京では年々こうした習慣もなくなってきました。
で、単純な私。長崎で東京では手に入らないような長ーいベールを買ってしまいました。
気分は「敬虔な信者」。
その前に教会にきちんと行かないとねえ。家では使えないし。

そういえばNHKが28日に特集を組むらしいので、見なくちゃ。