★はじめに(2010年10月31日追記)★

私は学生時代にスリラーのPVに衝撃を受けはしたが、真剣にその芸術に触れたことがなかった。それゆえ、彼の死去のニュースを聞いても、驚きはしたが、それまでであった。

その年の秋にあるレストランで食事していたところ、マイケルのコンサートの映像が流されていた。それは金色レオタードで腰をフリフリして何かを訴えるように歌う不思議な姿であった。私はその映像のインパクトに釘付けになったが、その店では「観客の声がうるさすぎるから」という理由で音を流さないで、別の音楽をかける、というひどいことをしていた。

ものすごいフラストレーションに陥って店を出たら、そのビルの一つ下の階がレコード屋で、そこではマイケル・ジャクソンの作品のキャンペーンが行われており、 Dangerous Tour のブカレストのDVDが大量に売られていた。まぎれもなくこれだ、と思って買って帰り、映像を見たのが私と彼の作品との真剣な意味での出会いであった。

その映像を何度か見るうちに、私は深い衝撃を受けた。それ以降、私は研究時間のかなりの部分を割いてマイケルの作品やさまざまの映像・資料を集め、解読した。その結果、私は、彼が20世紀最大のエンターティナー、芸術家、慈善活動家であるばかりではなく、最大の思想家の一人であるという結論に到達した。彼の作品は、その思想を厳密に表現するために、完璧に構成されているように私には見えた。

マイケル・ジャクソンは、ベートーベンに匹敵する音学家であり、リストに匹敵する演奏者であり、ニジンスキーに匹敵するダンサーであり、チャップリンに匹敵する映像作家であり、ゴッホに匹敵する画家であり、キング牧師に匹敵する非暴力活動家であり、マザー・テレサに匹敵する慈善活動家であり、スティーブ・ジョブズに匹敵する企業家であり、その上、最も優れた思想家でもあったのである。

その驚くべき能力と影響力の深さを考えたとき、マイケル・ジャクソンに匹敵する人物は一人しか思いつかない。モーハンダース・カラムチャンド・(マハートマ)・ガンディーである。

このブログは、私の解読した思想を記録しておくために書き始めた。もともとは論文や書籍とするための準備として始めたのだが、書き始めてみると、マイケルの思想を伝えるには、YouTube などに掲載されている動画を根拠として挙げることが不可欠であり、表現形式としても、書籍よりもブログのほうが相応しいことがわかってきた。

書籍化の道を探ってはいるのだが、形式がふさわしくない上に、どういうわけか著作権関係の問題もかなりやっかいであることがわかってきたので、難航している。それゆえ、このブログを主たる発表の場と考えることにした。

お読みいただいた場合は、コメントやメッセージを返して頂けると幸いである。これもまた書籍では得られないことであり、マイケルの思想を論ずるには特に重要なことのように感じる。

安冨歩


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 マイケル・ジャクソンが亡くなってから、それ以前とは手のひらを返したようにマスコミは賞賛の言葉を贈っている。多くの出版物でも同様の美辞麗句が並んでいる。しかし私にはそのほとんどが、彼の思想の深さに全く言及していない事に、強い憤りを覚える。
 マイケルの思想はグラミー賞のレジェンドの受賞演説に端的に表現されている。
 
最も重要な部分は、
「子供たちが最も深い智恵に到達し、そこから創造性を得る方法を教えてくれる」
という考えである。マイケルは環境と社会の諸問題の根源を、子供から子供時代が奪われることに求めた。そしてそこからの脱却を子供から創造性を学ぶことに求めた。子供を守るのは子供のためではない。人類社会と地球とを守るために、子供の創造性を守らねばならないのである。子供の虐待は子供への犯罪のみではなく、地球と人類社会とに対する犯罪なのである。
 マイケルはそのようにして迫害される子供たちの痛みを直接感じていた。それどころか、地球環境のすべての命に対する迫害を、その全身で感じていた。それはたとえばEarth Songに現れている。

この曲はマイケルの「誇大妄想」や「救世主症候群」の表現として嘲笑されるが、とんでもない話である。マイケルは実際に、地球と人類との痛みをその身に感じ、人々に伝えようとしていたのである。彼がペインキラーを常用するようになり、その死の直接の原因になってしまったのも、この痛みのせいだと私は考える。
 マイケルを「救世主気取り」として攻撃する人がたくさん居た。しかしアメリカの黒人の貧困な家庭に生まれた男の子が、地球上の痛みを感じ取り、それを何億という人々に届けることに成功するということは、どう考えても奇跡としか言えない。しかも彼は多くの子供の病気を愛によって癒してみせたのである。救世主であることの条件は、奇跡によってそのしるしを示すことである。しかも彼は自分が救った子供の裏切りにより、欺瞞によって生きる人々の誹謗と中傷と暴力の行使を受け、十字架に掛けられた。
 その死によってはっきりしたと私は考えるが、もしイエススという歴史上に存在したある人物を「救世主」と呼ぶのであれば、マイケルは「救世主気取り」だったのではなく、それは社会的現象としての「救世主」そのものなのである。グラミー賞のビデオに見えるように、彼は Michael, I love you! とファンに呼びかけられると微笑んでしまい、I love you, too!と投げキスを返す。これはファンサービスなどというものではなく、本当にそうしてしまうのである。これは阿弥陀仏が自らの名を呼ぶ者を誰でも救うのと同じ構造を持っている。Michael, I love you! とその名を呼ぶ者をマイケルは、必ず救い上げて、Neverland に迎え入れてくれるのである。そのように信じても、何も問題はない。