呪縛に掛かった人間は、その呪縛を自ら認識することができなくなる。というのも、呪縛はそこが認識の盲点になるからである。たとえば、翔のケースがそうである。彼は母親の形見が焼かれるのを見ながら、

最悪だよ、俺。
お母さんのこと思い出そうとしもさ、
ガミガミ怒られたり、うざいとか、ほっとけとか言ったことしか浮かんでこないんだよ。
もっと優しくしなきゃいけないかったのに、
(中略)どうすりゃいいんだよ。

と言う。これは呪縛によって形成された盲点の作用を見事に表現している。この場合、最悪なのは「お母さん」の方であって、「俺」の方ではない。もっと優しくしなきゃいけなかったのは、「お母さん」の方であって「俺」の方ではない。

おそらく、母親が生きていたときには翔は、そのように半分くらいは認識していたに違いない。しかし、母親が自殺という技によって、翔に「悪いのはお前だ」というモードを埋め込むことに成功したのである。これが呪縛である。

そうなると「母親はうざくて、俺のことを愛していない」という翔の正しい感覚は封じられてしまう。封じられとそこは感じられなくなる。たとえ感じても「それは俺が悪いのだ」ということになって、その意味を汲み取ることを拒絶してしまうのである。もちろん拒絶したことは認識しないようになるので、結局のところ、認識ができない。

「どうすりゃいい」のかというと、「母親はうざくて、俺のことを愛していない」というかつての正しい認識を回復せねばならないのだが、それを自分でやるのは不可能に近い。自分で「最悪だよ、俺」と前提しているのが呪縛である以上、いくら考えても「自分の認識は最悪」という結論しかでてこないので、「どうすりゃいいんだよ」ということにしかならない。人間は自分一人では呪縛に対して無力である。

(つづく)