$マイケル・ジャクソンの思想(と私が解釈するもの)著者:安冨歩

役人は政治家は、何かというと、

「仕組みづくり」

という。原発事故が起きて二三週間たったときに、小出裕章さんがラジオの番組で電話出演していて、スタジオに民主党の議員が二人ほど来ていたのだが、彼らが「小出さんのような人を排除しないように、もっと幅広い人がこの問題に参画できる仕組みづくりが大切だ」というようなことを言ったのに対して、小出さんが、「原子力安全委員会というものが既にあるのだから、そんなものはいらない。今、戦争のような事態になっているのに、仕組みがどうとか言っている場合ではない。これだから私は政治が嫌いなんです」というようなことを言っておられた。

役人や政治家に限らず、今の人は「仕組みづくり」が好きである。東大でも、何か問題があると、「○○問題ワーキンググループ」というようなものがすぐにできて、そこではその問題を解決することより、今後、こういう問題が起きたらどのように対処するか、が主として議論され、その一環として目の前の問題が処理される、というのが「正しい」と認識されている。

こういう「仕組み」を議論しないで、目の前の問題をどうやって解決するか、だけを考えるのは、むしろいけないことなのである。

どうしてこんなことになるかというと、責任を回避するためである。たとえばAさんとBさんとがもめているときに、事態を吟味して「Bさんが正しい」とか結論を出すと、当然、Aさんに恨まれる。それは嫌なので、AさんとBさんとの間で生じる問題を一旦、抽象化して「○○問題」というようにモノとして実体化し、その実体化された「問題」について「合理的」な「基準」を設定するのである。そうやって設定した「基準」を、今度はAさんとBさんとの紛争へと具体化して適用し、その結果、「Bさんが正しい」というように結論する。こうしておけば、Aさんが文句を言っても、「これこれこういうワケで」と説明できるし、その基準の策定に多数の人が関与しておれば、「私個人としてはあなたの言い分も非常によくわかるのですが、ワーキンググループで合議を重ねた結果、このような一般的方向性が出されましたので、やむを得ません。」と言うことができる。

こういうことの積み重ねで、いろいろな「仕組み」が無限に出来上がって、「仕組みの生態系」が形成され、その生態系の自律的運動に人間のほうが巻き込まれていく。そうなると、もう何がなんだかわからなくなってしまうのである。

原発というシステムも、こういう「仕組み」で動いている。そうなると、もう、事故が起ころうが何が起ころうが、だれも止められない。放射能をバラまいても「大したことはない」と強弁し、原発が爆発しても「安全だ」と言い張る。そうしないと仕組みがみんなバラバラになってしまうからである。

「東大話法」はこの「仕組みづくり」と密接に関係している。

しかし、組織というものは、人間をコントロールするためにあるのではなく、人間が物事をコントロールするためにある。個々の人間が、創造的に事態に対処するために必要な手助けをするのが組織の役割である。「仕組みづくり」という考え方は、実は組織を破壊するのである。

「脱原発」というものは、こういった思考方法との決別がなければ、決して実現しうるものではない。昨今は、「脱原発」ではなくて「脱原発依存」とか言い出しており、またも言葉を歪めているが、これはもはや、仕組みの生態系に蹂躙されつつあることの表現である。

ここで立ち止まらないと、日本社会から人間が排除され、仕組みだけが残る。