終戦後の大勝利 ~なぜ白虎隊は勝てたのか? | 日本と中国の真実に迫る!

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おはようございます。
長谷川です。

 

ご存知でしょうか?
終戦直後の1945年8月18日に突如として
戦闘が始まり、そしてこの戦いに日本は勝ったことを…。

 

 

「占守島(しゅむしゅとう)の戦い」について
お話をします。

 

 

戦いが行われた占守島とは…

 

 

占守島は、北方諸島の最北端にあり
面積で言うと琵琶湖程度の小さな島です。
海抜200m未満の丘陵と沼地、草原が入り混じり、
樹高1mくらいの這松や榛の木が群生しています。

 

夏は15度で濃霧が発生し、冬にはマイナス15度で猛吹雪になる気候。
東西20km、南北30kmあまりの小島だが、北はカムチャッカ半島、
東はアリューシャン列島と交差する要所で、日本領の最北端でした。


日本はアリューシャン列島を西進してくるアメリカ軍の侵攻に備えて、
戦車隊を擁する精鋭守備軍2万5000をここに置いていました。
1945年当時、すでにアリューシャン列島のアッツ島やキスカ島は、
米軍によって陥落していました。


戦いは不意打ちから始まる…

 

1945年8月15日、終戦と当時に
大本営は日本軍に武装解除を命じます。

 

もちろん、占守島にもこの伝令が伝わり
未使用の弾丸などを海中投棄したり
爆弾の震撼を抜いたりと、引き上げる準備を始めていました。


そして夜は、早くから酒を酌み交わし、故郷の土地を
懐かしむ者もいたそうな…。

 

そして…

 

8月18日午前2時。濃霧が強い夜でした
司令部に監視所から報告が入ります。

 

「敵上陸、兵力数千人。国籍不明!」

 

 

占守島の北端、竹田浜に陣を敷いていた
北端の守備を任されていた歩兵282大隊の村上大隊長は命令を下します。

 

「軍使が夜中に来ることはない。射撃開始!」

対岸のロパトカ岬から砲撃が加えられます。

報告を受けた隣の幌延島の第91師団本部から下令されます。

 

「占守島の戦車連隊、歩兵73旅団は敵を海に叩き落とせ!!。
幌筵島の歩兵74旅団は占守島に移動、援護せよ!」

 

 

この戦車連隊‥・戦車第十一連隊は、「十一」を合わせて「士」、
通称「士魂部隊」と呼ばれた精鋭部隊で、
「戦車隊の神様」と言われた池田末男大佐が指揮していました。


18日午前3時半 敵主力部隊が竹田浜に上陸し、
日本軍の砲火をかいくぐって、四嶺山に到達します。
日本軍守備隊は敵に包囲されます。


 

見事な撃破!

 

 

この包囲された状況に対し「士魂部隊」の池田連隊長が訓示を出します。

 

「我々は大詔を奉じ家郷に代える日を胸に、ひたすら終戦業務に努めてきた。
しかし、事ここに至った。もはや降魔の剣を振るうほかはない。そこで皆にあえて問う。

池田末男少佐諸氏は赤穂浪士(あこうろうし)となり、
恥を忍んでも将来に仇あだを報ぜんとするか、あるいは白虎隊(びゃっこたい)となり、
玉砕もって民族の防波堤となり、後世の歴史に問わんとするか。

赤穂浪士たらんとする者は一歩前へ出よ。白虎隊とならん者は手を挙げよ!!」

 

全員が歓声を上げて両手を挙げます。
「連隊はこれより全軍を挙げて敵を水際に撃滅せんとす」

 

 

連隊長は先頭を進む戦車の砲身に日章旗を手にしてまたがります。
そこに30数台の戦車が…続々と

 

18日午前6時20分 戦車連隊はソ連軍が包囲する四嶺山麓に到達します。

 

6時50分 池田連隊長より師団指令部あて打電します。

「池田連隊は四嶺山の麓にあり、士気旺盛なり。
ゼロロクゴゼロ(0650)、池田連隊はこれより敵中に突入せんとす。
祖国の弥栄いやさかを祈る!!」

 

午前中いっぱい、四嶺山から竹田浜にかけて、激烈な白兵戦が展開されます。
竹田連隊長の戦車に敵の対戦車砲が貫通しますが戦闘は続行され、
午後にはソ連軍を竹田浜に追い詰めました。

ソ連軍は戦車部隊を持たず致命的なダメージを被ります。

通常の爆弾や対戦車用炸裂弾を搭載して攻撃を加え、
航空部隊の戦後も加わり
輸送船2隻、駆逐艦2隻、艦種不明1隻撃沈、輸送船2隻撃破
という大戦果を収めました。



戦いの後…

8月19日 ソ連共産党機関紙『イズベスチア』にてこのように書かれました。

「占守島の戦いは、満州・朝鮮における戦闘よりはるかに損害が甚大であった。
8月19日は、ソ連人民の悲しみの日である」

 

驚くことにソ連は占守島を1日で占領する予定でした。
しかし、4日間、日本軍の善戦により3000名以上のソ連兵が
死傷し、目的を達成することができませんでした。

8月23日、千島列島の日本軍は武装解除し
ソ連は南樺太と共に占拠します。


なぜ突如、上陸したのか?スターリンの分断計画

 

ここまで話を聞くと
「なぜソ連は攻め込んできたのか?」という疑問が沸いてくるでしょう。

 

 

大戦終了間際、
スターリンは、日本分断という卑劣な計画を遂行しようとしていました。

 

1945年、フランクリンルーズベルト、チャーチル、スターリンの間で
かわされたヤルタ会談の際、ソ連は千島列島にみならず
北海道の北半分も手中に収めるという密約も結んでいたと言われています。

スターリンは北海道だけでなく東北も赤化するという

分断工作を企てていました。


アメリカの勝利が目前となったとき
ソ連は、その機会に一気に日本領土を奪おうと虎視眈々と狙っていたということです。

北海道まで自国の領土となれば、太平洋がすぐ眼前に広がり
その後の世界革命にも有利になると考えていたのでしょう。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

このような経緯もあり

 

終戦後すぐソ連は千島に攻め込んできたのです…

しかし、日本は、この占守島の戦いに勝利しということもあり
スターリンの計画は崩れました。
北海道まで占拠されることを免れたのです。


我々は、常に大きな世界の野望の中を生きなければなりません。
敵対する国家が、非道な手段で
日本を分断しようとする…これは戦略的観点から使われる手段です。

 

これは先の大戦のときだけでなく…

今でも分断工作というのは使ってきているのです。

しっかりとこの部分は見極めなければいけないと思います。

 

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