日中は暑すぎるから、犬の散歩は夜にする。
 

すでに暗くなった公園に行くと昆虫網をもった親子連れがまだ蝉取りをしている。犬と同様に子供も日中は暑すぎるということなのかもしれない。子供の時に近所の公園で成虫になろうと地中から這い上がってきた蝉を捕まえて、家のカーテンで脱皮を観察したことを思い出す。脱皮したばかりの蝉は透明でとてもきれいで感動する。朝に蝉を逃がして元気に飛んでいったことは今でもはっきり覚えている。

 

そんなことをぼーっと考えていたら、クシャっという感触が足の底から伝わってきた。なにを踏んだのかと思ったら、そこに、半分潰れながらも必死に歩いている蝉の幼虫がいた。可愛そうなことに、痛めた身体でも諦めずに必死に歩いていた。余計に嫌な気分になった。7年もかけてようやく地上に出てきたかと思ったら、犬の散歩にでてきた人間に踏まれてしまった。暗くて気がつけなかったとはいえ、足に残る感触とともになんとも言えない罪悪感を感じた。人間は生きているだけで、知らず知らずに生き物を殺してしまっている。なんとも罪深い生き物だ。でも、そんな感覚を感じるのも一時だし、その日、たまたまそう思っただけの事。そんなことを常に気にしていたら生きていけない。


Imageはmidjourneyで作成
 

以前ブログに書いたように自分はヴィーガンのつもりだ。でも、ホタテも食べるし出汁のカツオとかはOKとかにしているので、正確にはフレキシタリアンだ。正直どうでもよい事かもだけど、どこまで何をOKとするのかは、ヴィーガンにとっては結構大きな問題で、悩みどころだ。食事以外でもそういう問題にあたることがある。

たとえば、家にゴキブリが家に入ってきたらどうするんですか?という質問に、窓から逃がすと回答しているヴィーガン仲間がいた。自分にはそんな芸当は無理だ。僕はゴキブリが怖い。ゴキブリは殲滅してしまわないと安心できない。差別といえば差別だ。ヴィーガンだから、生き物を大切にするからといって、全ての虫まで許容するなんてことは今の自分にはできない。ゴキブリは殺すし、蚊は叩くし、なんなら、蟻を潰してもそれほどの良心の呵責はない。でも、蝉の幼虫は別だ、自分にとって思い出があるし、7年もかけて地中にでてきたかと思うと、心が痛む。この差は何なんだろう?明確に説明することが難しいいように思える。ゴキブリも蚊も自分に害があるからということを理由にできそうだけど、逃がしてあげたり、別な方法で避けるようにすれば良いだけで、忌み嫌って殺してしまう理由にはならないと思うからだ。何しろ蝉の幼虫を潰したほどの良心の呵責はほとんどないのだ。何が分岐点になっているのだろう?



人間は生きているいる以上、他の生き物を殺してしまう。それは、どうしても避けられない。たとえヴィーガンを貫いていたとしても、植物はどうなのか?と思ってしまう事がある。ある研究によっては、植物はハサミの音に反応するし、モーツアルトの音楽を聞いてよく育ったりするという。レタスをバッサリ切って食べるのは、レタスの生首を刈って頭をかじってるんじゃないかと言われたら、嫌な気分だが、完全に否定するのはすごく苦労する。もし、本当に全ての生き物を敬い、差別なくするというのであれば、究極的には果物だけを食すということになると思う。実を食べても、植物は殺さないし、むしろ、子孫を残すことに協力するできるわけだからだ。スティーブ・ジョブズは、そうしてたみたいだけど、あまり実践したり、人におすすめできるようなやり方じゃない。

 

ベジタリアンやヴィーガンといってもいろいろある。食事の制限というベクトルで考えたときには、ヴィーガンはそのグラデーションの一つでしかないと考えるのも一つだと思う。

  • 牛を食べない人
  • 牛と豚を食べない人
  • 牛と豚と鳥を食べない人
  • 牛と豚と鳥と魚を食べない人
  • 牛と豚と鳥と魚と卵と牛乳を食べない人
  • 牛と豚と鳥と魚と卵と牛乳とはちみつを食べない人
  • 牛と豚と鳥と魚と卵と牛乳とはちみつとにんにくとしょうがを食べない人
  • フルーツとナッツしか食べない人
  • 水しか飲まない人
  • 工業的畜産で生産された食品は食べないという人
 
食事制限の種類は、ちょっと出しただけでも、これだけのバエティがある。ここに上げたものは組み合わせもできるので、更に何通りにもバリエーションが発生する。魚の中でも、貝はOKとか、細かいレベルの段階分けだってできる。それは、色の名前と同じで細かくみたり、曖昧なラインをついていくと名前をつけるのが難しくなる。例えば、紫の種類のなかには、バイオレットだとか、ラベンダーという名前の色があるが、カラーコーディネーターでも無ければ、判別も難しい。知識とスキルを持っている人だけに伝わる共通言語でしかない。だから、完全に誰は正しいヴィーガンかという線引などは、多くのひとにとって無意味に等しい。ラクト・オボ・ベジタリアンとか、ペスカタリアンといわれても、普通はわからない。あるのは、ヴィーガンて大体こういう事だよね、という社会的コンセンサスだけだ。もちろん、カテゴリー分けして名前をつけること自体はなにも問題ではないと思う。選別して命名することで、その事象を社会で扱えるようになる。だから、むしろより粒度の高い共通認識が広がるのは良いこと。問題はむしろ、その共通認識はなんのための共通認識で、その記号を使って何をしたいのか?ということ。ちなみに、自分は、肉、魚、卵、牛乳は取らないが、ホタテは食べて、鰹節などの出汁は使う。はちみつもたまに食べる。蝉は潰すと心痛むが、ゴキブリは殺す。果たして私はヴィーガンなのだろうか?


ヴィーガンの定義が難しいのは、それがひとのアイデンティティになっているからだ。色の話であれば、客観的な議論になれるかもしれないが、もし自分が、日本で育ったケニア人と日本人のハーフで、あなたは、肌が黒いから日本人じゃないよねと言われれば傷つくし、アイデンティティ・クライシスに悩まされることにもなると思う。ヴィーガンもレベルは違うが同じような議論があると思う。動物愛護のためにハーフ・ヴィーガンで、家族と過ごすためにハーフ・ペスカタリアンを選択していたときに、あなたは魚を食べてるからヴィーガンじゃないといわれると、自分は苦しく感じる。否定もできないけど、心の中で納得もできない。

みんな肉を食べていたところから、何かをきっかけにヴィーガンになっていく。それも、最初は知識も経緯も断片的に存在している中から、なんとかつなぎ合わせて始める。始めることによって情報が集まり、詳しくなり、食生活、畜産業、健康の問題、ヴィーガンのライフスタイルそのものに少しづつ詳しくなる。私自身も、ヴィーガンはパンについても気を使っている、と気がついたのは暫くしてからだ。自分はパンは、小麦粉と水と塩とイースト菌があればできると思っていたけど、実際は卵や乳化剤など入っているパンの方が多いからだ。でもそういう身の回りの基本的なことを少しづつ気にかけるようになり、今まで無視していた事に目をやり、その先の世界を考えるようになっていく事そのものが、ヴィーガンのプロセスだと思う。実践度合いは常にグラデーションの間で揺れ、人生の時期によっても振り動く事があるのが普通だと思う。現実の世界はYES/NOで、2分できるほどシンプルではなく、いつだって多元的なんだ。多元的なものを人間の認知の限界があるから、分けて考えるようにしているだけなのだ。

ヴィーガンの人たちが渋谷をデモを行った頃、SNSでは、ヴィーガンは肉食のライオンをどうするんだ?という幼稚な議論が盛り上がった事がある。下らないから面白かったのだろう。自分も面白いから調べてみた。野生のライオンは世界に推定2万頭いる。5〜8頭ぐらいで群れをつくり、2〜3日に狩をする。狩の成功率は20〜30%だ。狩が成功した直後以外は、飯がないので普段はかなりお腹が空いているはずだ。これをフェルミ推定的に計算すると、世界のライオンたちは、毎日約500の動物を殺している。一方人間は、日本単体で約180万(牛3,200頭、豚45,000頭、鶏175万羽)を一日あたり殺していて、アメリカ単体で2,330万の動物を一日あたり殺している。
 

  一日に食べるために殺される動物の数
世界のライオン ※1 500
日本のひと※2 1,800,000
アメリカのひと※3 23,300,000

※1  20,000 ÷ 6 x 0.5 x 0.3 = 500

※2 家畜の牛・豚・鶏は1日に何匹屠殺されているのか?

※3 How Many Animals Are Killed for Food Every Day?

比べ物にならない量の差がある。ライオンに食べられたシマウマの悲鳴は聞こえてきそうだけど、ひとのために殺された動物は多すぎて、その数の多さから一匹一匹の声すら聞こえない。ライオンは飢餓状態を脱するために狩をするけど、人間は食べれない量を生産し、食いきれない食品を捨てて温暖化ガスの原因をつくり、不健康になるほど動物を消費して死んでいく。今我々がいる環境において、果たしてその行為が十分な意味があるのだろうか?ちなみにライオンは絶滅危惧種で、裕福な国の人間たちの支援がなければ住む場所を終われ絶滅してしまう状態だ。人間とはそもそも違う状況に置かれている。それでも、ヴィーガンは肉食のライオンの事はどう思うのですか?という話をしたければすればいいと思う。


よくサステナブルなプロジェクトの飾り文句に、「地球のために」みたいな文句がよく出てくる。それはそれで、気持ち良い言葉でいいと思うけど、実は地球という惑星は、文明が滅びようが、生物がほぼ絶命しようが、地表が熱くなろうが、凍りつこうが関係ないのだと思う。この惑星にとっては、どっちでも良いことだと思う。ただ、ひとが定義する「地球」というものが青々とした海と緑の大地に生命が息吹き、命を謳歌できる惑星の事だとすれば「地球のために」ということには意味がある。今、人間は紛れもなく、その「地球」を変化させている。どのバージョンの「地球」を作るのかというのは、まさしく人間の足元にあるはずだ。
 

November 15, 1989 - January 9, 2022, 南極, images form NASA.

ヴィーガンは、その未来の「地球」との関係性を築くために、動物への理不尽な暴力を少しでも減らすために、今アクションを起こし始めた人たちの事を言うのだと、私は思う。そういう人たちは、厳格な定義からは外れても、既にグラデーションの中のどこかに入ってきている人だから。本当になすべきことは、異なる人達が同じベクトルで地球の未来というロマンを追いかけること。
もし、そういった事に興味がない人でも、少しぐらい試してみたらいいと思う。ミートフリーマンデーという運動があるように週1日肉をやめた食事にするというのも一つだと思う。マーケティングのヒントになるかもしれないし、健康や環境以外でも気づきがあるかもしれない。ヴィーガンと会話してみるのも一つだ。新しいい体験を感じれるはずだ。未来の「地球」との間に自分をどこに置いたら良いのか?それを少しづつでも検討し始めているひとは、既に同じフィールドで夢を見始めているのだと思う。
 
夏の夜になく、蝉の声にもう一度耳を傾けてみた。
 
 

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PS.
ヴィーガニズムをちゃんと知りたければ、
「世界で一番重要なスピーチ(ゲイリー・ヨーロフスキー)」と検索して動画を見ると深ぼれます。
少々長いのと、動画の中には動物虐待の実態の映像も入っているので、ご自身のご判断でみてください。

なお、動画でたくさん紹介されているような食材は海外のものばかりです。
日本でヴィーガン食試してみようと思ったら、こちらのサイトにいろんなヴィーガンフードが揃ってます。