少し風は強いけど、心地良いお天気です。
日が暮れるのもずいぶん遅くなりました。
1ヵ月ほど前、父を連れて帰ったこの時間はもう真っ暗でした。
これから先は私達には誰にでも訪れる事を書きますが、読むことで御気分を悪くさせてしまうかもしれません。
そのような恐れがあるとお感じになる方がおられましたらここから先はスルーして下さいませ。
私が骨盤骨折をして、1週間経った日の朝、母かLINEが入りました。
おじいちゃん起きられず、今から病院へ
え? 大丈夫なの?救急車?
いいえ、病院には連絡してあるよ
救急車で行きなさいよ~
嫌だって!
そんなこといってる場合じゃないでしょうに~(;^_^A
いつもならそこで飛んでいくのですが、何せとてもじゃないけど歩けないので連絡を待つことにしました。
それでもその時はまだそんなに緊張感はありませんでした。
お昼過ぎ、こちらからLINEを入れてみたら、まだ外来で診察待ちでした。
どうやら病院へ着いたのが12時半過ぎだったようです←上のLINEは9時半過ぎ( ̄□ ̄;)!!
確かにね、私も救急車呼ぶ時はかなり悩みましたけど、どうしても嫌がる父に逆らえず、ものすごい時間かけて連れていったみたいでした。
診察前に、酸素つけて、血ガス測っていました。
その後、病棟へ上がったのですが、そこでも一悶着(苦笑)
入ったのが一番ナースステーションに近い個室(いわゆる重症個室)でしたが、何で大部屋じゃないんだ?と騒ぐ父(^^;)))
みんなにあれこれ言われて渋々納得したらしいです。
実はこの時点で、主治医K先生から母に、もしかしたら今回は…と言われたようです。
そしてその日は輸血をして終わりました。
翌日、私は行けないので男子大に様子見を頼んだところ、ベッド上ではあったけど、いつもと全然変わらなかったと報告を受けました。
めちゃめちゃ気になったけど、自分では動けないし、母からも自分を大事にしなさいと言われていて悶々としていました。
東京から飛んできた妹と母からの連絡を受けながら、土曜日には無理してでも行こうという気持ちになっていました。
金曜日の午後、父はしきりに私の事を気にしていたようで母と長いこと話していたようです。
重症個室に入った時点で今回はヤバいかも…と思い、連絡が入るたびに医療オタクの私はますます悶々とし、ご飯もろくに食べられませんでした。
そして土曜日。
いつもの何倍もの時間かけて支度して、お昼過ぎに出かけました。
部屋に入るなり、私に「かみさんはどうした?」
説明しても何度も言うので電話をかけました。
この時点ですでに下顎呼吸が始まっていました。
それでも意識はしっかりしています。
酸素していてもサチュレーションは85くらいしかなくてアラームがなりっぱなしです。
看護師さんが細かく様子を見に来てくれます。
母が痛いところをさすっていますが、その近くに心電図のパッドが貼ってあるため波形がずれます。
なので、病棟担当医のM先生と看護師さんが柔らかく「痛み止め使う?」と何度か言ってくれました。
最初で最後の痛み止めは腎機能の低下もあって小児用の座薬が半分でした。
最後まで麻薬系のは使いませんでした。
座薬を入れて少し経った後、今までのアラームと違う音が鳴ったとたん、ナースステーションからたくさんの人が来ました。
M先生はそれを見て、みなさんを帰るように促してくれました。
母と妹はそれぞれの手を、私は足をさすっていました。
私はモニターの正面にいたので辛い現実を目の当たりにしながら、「明日、孫君がくるから頑張らないとダメだよ~」と叫び続けました。
二人もそれぞれに声をかけています。
いつの間にかM先生の姿はいなくなっていました。
モニターがフラットになっても声をかけ続けました。
最後の最後まで耳は聞こえているんですね。
息子の名前を呼ぶと心拍が戻るんです。
声をかけてもモニターがフラットのまま、30分くらいいたでしょうか…
足が氷のように冷たくなって、私は二人に「もう、良いよね、ものすごく頑張ったもん」といいました。
最期の確認をしてくれたM先生は、去年の6月、ケモ入院中にイレウスと誤嚥性肺炎を併発して危篤状態に陥ったとき一緒に泣いてくれました。
エンゼルケアが終わって家に帰る時、ちょうど今くらいの時間はもう外は真っ暗でした。
私が病院に着いてからわずか1時間半のことでした。
今でも、父は私が来るのを待っていてくれたんだと思っています。
動けない私は病院にお願いして車椅子を借りてきました。
あわただしく、通夜、葬儀が終わり、そして昨日、五七日の法要が終わりました。
妹にかなり助けてもらいましたが、それでも私が動かなきゃいけないことも多く、骨折の治りが悪いのは仕方がないことです。
診断書には、原因 前立腺がん、11年4ヵ月と書いてありました。
色々思うことがたくさんあったけれど、本当に頑張ったと思います。
立派な父でした。
最後まで読んでいただきありがとうございましたm(__)m
日が暮れるのもずいぶん遅くなりました。
1ヵ月ほど前、父を連れて帰ったこの時間はもう真っ暗でした。
これから先は私達には誰にでも訪れる事を書きますが、読むことで御気分を悪くさせてしまうかもしれません。
そのような恐れがあるとお感じになる方がおられましたらここから先はスルーして下さいませ。
私が骨盤骨折をして、1週間経った日の朝、母かLINEが入りました。
おじいちゃん起きられず、今から病院へ
え? 大丈夫なの?救急車?
いいえ、病院には連絡してあるよ
救急車で行きなさいよ~
嫌だって!
そんなこといってる場合じゃないでしょうに~(;^_^A
いつもならそこで飛んでいくのですが、何せとてもじゃないけど歩けないので連絡を待つことにしました。
それでもその時はまだそんなに緊張感はありませんでした。
お昼過ぎ、こちらからLINEを入れてみたら、まだ外来で診察待ちでした。
どうやら病院へ着いたのが12時半過ぎだったようです←上のLINEは9時半過ぎ( ̄□ ̄;)!!
確かにね、私も救急車呼ぶ時はかなり悩みましたけど、どうしても嫌がる父に逆らえず、ものすごい時間かけて連れていったみたいでした。
診察前に、酸素つけて、血ガス測っていました。
その後、病棟へ上がったのですが、そこでも一悶着(苦笑)
入ったのが一番ナースステーションに近い個室(いわゆる重症個室)でしたが、何で大部屋じゃないんだ?と騒ぐ父(^^;)))
みんなにあれこれ言われて渋々納得したらしいです。
実はこの時点で、主治医K先生から母に、もしかしたら今回は…と言われたようです。
そしてその日は輸血をして終わりました。
翌日、私は行けないので男子大に様子見を頼んだところ、ベッド上ではあったけど、いつもと全然変わらなかったと報告を受けました。
めちゃめちゃ気になったけど、自分では動けないし、母からも自分を大事にしなさいと言われていて悶々としていました。
東京から飛んできた妹と母からの連絡を受けながら、土曜日には無理してでも行こうという気持ちになっていました。
金曜日の午後、父はしきりに私の事を気にしていたようで母と長いこと話していたようです。
重症個室に入った時点で今回はヤバいかも…と思い、連絡が入るたびに医療オタクの私はますます悶々とし、ご飯もろくに食べられませんでした。
そして土曜日。
いつもの何倍もの時間かけて支度して、お昼過ぎに出かけました。
部屋に入るなり、私に「かみさんはどうした?」
説明しても何度も言うので電話をかけました。
この時点ですでに下顎呼吸が始まっていました。
それでも意識はしっかりしています。
酸素していてもサチュレーションは85くらいしかなくてアラームがなりっぱなしです。
看護師さんが細かく様子を見に来てくれます。
母が痛いところをさすっていますが、その近くに心電図のパッドが貼ってあるため波形がずれます。
なので、病棟担当医のM先生と看護師さんが柔らかく「痛み止め使う?」と何度か言ってくれました。
最初で最後の痛み止めは腎機能の低下もあって小児用の座薬が半分でした。
最後まで麻薬系のは使いませんでした。
座薬を入れて少し経った後、今までのアラームと違う音が鳴ったとたん、ナースステーションからたくさんの人が来ました。
M先生はそれを見て、みなさんを帰るように促してくれました。
母と妹はそれぞれの手を、私は足をさすっていました。
私はモニターの正面にいたので辛い現実を目の当たりにしながら、「明日、孫君がくるから頑張らないとダメだよ~」と叫び続けました。
二人もそれぞれに声をかけています。
いつの間にかM先生の姿はいなくなっていました。
モニターがフラットになっても声をかけ続けました。
最後の最後まで耳は聞こえているんですね。
息子の名前を呼ぶと心拍が戻るんです。
声をかけてもモニターがフラットのまま、30分くらいいたでしょうか…
足が氷のように冷たくなって、私は二人に「もう、良いよね、ものすごく頑張ったもん」といいました。
最期の確認をしてくれたM先生は、去年の6月、ケモ入院中にイレウスと誤嚥性肺炎を併発して危篤状態に陥ったとき一緒に泣いてくれました。
エンゼルケアが終わって家に帰る時、ちょうど今くらいの時間はもう外は真っ暗でした。
私が病院に着いてからわずか1時間半のことでした。
今でも、父は私が来るのを待っていてくれたんだと思っています。
動けない私は病院にお願いして車椅子を借りてきました。
あわただしく、通夜、葬儀が終わり、そして昨日、五七日の法要が終わりました。
妹にかなり助けてもらいましたが、それでも私が動かなきゃいけないことも多く、骨折の治りが悪いのは仕方がないことです。
診断書には、原因 前立腺がん、11年4ヵ月と書いてありました。
色々思うことがたくさんあったけれど、本当に頑張ったと思います。
立派な父でした。
最後まで読んでいただきありがとうございましたm(__)m