【雑記】平和論 ~坂口安吾作品の読書感想文~ | Jazz@Saku

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会社員でジャズベーシストのJazz Man BSakuの日常を暴く!(笑)

「早起きしたしブログでも書こう!」と思い立ち、いざブログのエディタを前にしたが、はて、何を書きたいのか、書こうと思った時にはあったはずであろう書きたいことが分からない。公に言いたいことでもあったのだろうか、数分前の自分のことが分からない、とはいかがなものか。

 日々を我武者羅に過ごしていたらあっと言う間に時が経っていて、演奏の予定はクリスマスシーズンを越して年始のライブの話をしている。一方で昼間の仕事では3年後の構想と1週間後の現実と3か月後の予想。そして現実に起こった過去を分析する。不可測な未来をおおよそ計測可能な状態にするという云わばシミュレーションをし、結果が出たらその差異を分析してその精度を高めていく。という地味なトライ&エラーが続く。まるで合奏練習と個人の楽器練習の繰り返しのようなものだ。

 以前ある教えを乞うために徳島まで出張って大学教授に話を伺った際に、それは数多くのことを学んだが、なかでも「人間はわがままな生物だという前提を忘れてはいけない。」という忠告をもらったことがある。何か世の中に便利なものを創って世の中に広まったとしても糠喜びになる。すぐにないものねだりが始まるか飽きが来て商売は続かない。だからいつも変化と挑戦をし続けなければならない。そんな忠告だ。真理真実だなぁと最近つくづく思うことがある。

 地球環境も毎日刻々と変化している、地球の温度が変化しているから物質は温度に合わせて形を変える。恒温動物や変温動物は生きるために温度が重要な変数だから温度が変わっちゃ都合が悪くなる。恐竜が氷河期で絶命したように、今度は熱帯期でも来て今の世の中の動物はがらりと様子を変えるのかもしれない。万物が日々動物の食物連鎖や宇宙環境の作用によって変化している。
 数十年単位の変化に緩やかに気づきながら、数年単位の経年変化を気にしながら、数か月先の命を憂い、日々の細かい喜怒哀楽と健康状態に翻弄されながら、時空を味わう。万物が作用しあって今の状態と形が“ある”=状態が保存されているわけだから、常に周囲に感謝する、という心持ちは的を得ていると思う。わがままで状態に翻弄されやすいヒトという動物は万物に助けれて存在しているからだ。万物を取り込み加工し衣食住を得て生きている。

 日本の平成は奇跡の平和状態だったと言う。国内での大きな戦いがなく過ぎたのは稀有なこと。渦中にいると気づかないことかもしれないが、平和ボケだ。世界は常に自国の利権を守るために、食料を勝ち取るために、疫病から命を守るために、わがままな指導者のために、必死で戦乱を生きているヒトもいる。外務や防衛をつかさどるブレインの皆さんはじめ自衛隊や海上保安の皆さんが身を挺して初めて、平和の時代と時空を個人が謳歌できているのかもしれない。戦争をすることは好まないが、平和を維持するための活動の必要性は認める。ガンジーはそれでも武器を持たずに銃に打たれてしまった。美談だけど死んでしまっては、魂は語り継がれたとしても灰になるだけだ。
 崇高なる美徳も経済的豊かさも何もかも虚空。常に存在するのは自分の脳と細胞、DNAに刻まれた何かと学習された記憶の繋がりと地球の万物だ。

 そう言えば、小学校の徒競走か何かで1位で走っていたのに、ゴール直前で立ち止まって後ろから来る友達に抜かされてしまったことがあったが、そんな人間である、私は。そう考えると自分は平和を求めて生きており、誰かに勝ってやろうとかそういう思考が生来乏しく、戦略などと言って私利私欲のために時空を使うことは性に合わないのである。

 こうやって書いていると、なんだか、自分の狭量さとわがままさが露呈してくる。ああ、私自身が、こんな適当なことを考えられる余裕のある時空に存在する、平和ボケ野郎ぢゃないか。

平和万歳!

 高校時代に感化され大学時代に全集を買い、井口時男教授の研究室で専攻以外の単位を取らせてもらいながらも、今までずっと読み切れずに目の前にあり、毎日外出する際に持ち歩き、少しづつ読み進めて、読み終えた。
日本文化私観、堕落論、続堕落論、青春論、悪妻論、恋愛論、エゴイズム小論、欲望について、、、等々。



 坂口安吾の作品を再び求めた自分と、読後の思考を書き記しておきたかったのだな。。。