【雑記】個性とか相性とか、チームとか、アンサンブルとか。 | Jazz@Saku

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会社員でジャズベーシストのJazz Man BSakuの日常を暴く!(笑)

 改めて、いろんな人がいるなぁ。と感じる今日この頃。僕もその「いろんな人」の一人であるけれど。

 

 過去の共通の時空間の体験に対して「覚えてないの?」と言われて「覚えていない。自分にとっては印象に残らない、どうでもよいことだったからかな。」と素で回答した。「あなたのそういうところが嫌!」とのこと。(続く)

 

 まぁ、ご想像通り夫婦の会話なわけで、二人の時間を確保すると毎回こんなテイストになっていく。序盤は最近起こったことをきっかけに談笑したり明るい話題で進行していくのだが、結果終盤には過去のエピソードと経験に対しての捉え方のズレが鍵になって怒りの感情が露出して、その場は終了になる。

 

 

 人生の長い道のりの道程のいろんな人との関わりが、関与度はそれぞれあると思うけどもそれは今は置いて置いて、人の個性を磨き上げていくよね。いわゆる体験というやつ。個性ってのはたいてい、ものの見方や捉え方というとわかりにくくて、喜怒哀楽の感情が表出するシーンで実は捉えていることが多いなと。(感情表出を解析する精神医学の手法もあるので、そう考えつく先人も数多くいるんだろうし、まぁ当たり前か・・・。)

 

 対話の中で相手に「同感」とか「共感」とかの言葉を伝えることがある。なんとなく同質性を感じたことが伝えられて、相手と近づく手段としては良さそうだけど、ずっと違和感があったし、今もある。本当に相手の言っていることを理解し切れているのだろうか、自分の感覚は疑わしい、と思っているから。

 

「『ワシのいうことが聞けんのか!』という父親と『俺の言うことが絶対だ!』っていう上司とは似てるようで違う」という話もした。家庭での振る舞いと仕事場での振る舞いが一緒だったら、地でやっているのかもしれないけど、成果を求めるか求めないかで統率するチーム(家庭も仕事場も2人以上で構成されているからチームという括りにする)の在り方は変わるよね。あと、感情的な言いようなのか、冷静沈着な言いようなのか、によっても捉え方は変わる。変数が多すぎるから、結果事実を見ないと何とも言えないことが多いと思う。

 

 

 ジャズ(とくくられている音楽)のアンサンブルは、「共演相手を慮りながらも、各楽器は自分の軸を持って表現する。」という、良き夫婦のようなコミュニケーションが大切な音楽表現だ。分かっている人には至極当たり前なことなのだけど、難しいことなのだなと思う。なぜならば、日本語でやり取りすることも違和感が絶えないのに、楽器や声を通しての暗喩的なコミュニケーションであるジャズのアンサンブルで良質なものを創造するのは大変な力が必要なものだなとも思う。その一方で楽器を通して暗喩になった分だけシンプルに共感を求めることができたりするのかもしれない。それが音楽の良さだし、表現の自由を奪われていた当時の黒人が編み出したジャズのルーツなんだろうなと思う。洗練されていて成熟度が高く人を圧倒することができるアンサンブルもあるし、武骨で未成熟だけど人に何かを訴えかけてくるアンサンブルもある。どっちもよい。

 

 「『多様な個を育てる。』これが日本の教育の目指したことだ。」と19歳の時に言われたことが、やはり強烈な印象に残っている。これは以前のブログにも書いた。これは日本全国民でジャズセッションをやる、ということと同義だと思う。

 

 だから、僕はジャズセッションのホストをやったり、いろんなチームと成果を求めたりする。

 

 やっぱり、人生音に出る、よ。