「仕事ばかりしてないで」。

 そう言われればそうかもしれない。休みとあれば仕事関係で繋がっていたい人と時間を合わせて会い、かたや仕事の場所を訪れ、様々な話を聞きながら、そして話しながら、先の何かに繋がればいいと動いている。

 仕事ばかり、と言われると否定は出来ない。

 忙しいし、何がなんだか分からないし、正しいかどうかも知らないけど。

 でも、愉しい。仕事が生き甲斐だなんて全く思わないけれど、愉しみの一つであり、他の愉しみに繋がるものであると思っている。

 だから、それでいい。

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 さて。

 本屋に行くと見るところはというと。

 文芸、そりゃあ欠かすことは無い。読む本がなくなるほどつらいことはない。

 ファッション、もちろんと言える。買わないことが多くなったけど、見ていないと分からないこともある。

 時計、コーヒー、音楽。つまり、こういうところに時間や手間やお金をかけられるかということだと思う。

 雑貨、僕の生活の数十パーセントはこれだと思う。

 そして、料理と食。

 これを見ずして、何も語れない。
$C O H-dayfood
 長尾智子さんの他の本が好きかと言われると、果たしてそうでもないパターンが多くて、これまでにはスープの本くらいしかアレだったのだけれど。

 写真もほとんどない、イラストもちょっぴり、ほとんど文章。

 でも何故だろう。

 こんなにも暖かくて、柔らかくて、優しくて、心に残る料理の本になるのだ、と感銘を憶える。

 それはまるで。

 ある種の小説のようで。

 現実的にはそういう分類なのだろうが、エッセイでも、コラムでもなく。

 純然たる、美しい文章のように感じてしまう。

 不思議なものだ。

 写真は多くを語り、真実をある程度見せ、イメージを固定化させ、便利だけれど。

 文章により、語られる以上のことを想い、虚実も含んだ愉しみを喚起し、イメージを創りだし、心を彩る。

 こんなに素晴らしいことがあろうか。想像とは、そして創造とはそういうものなのではないか。

 読む。

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 野菜の話。

 野菜が食べたい。これは定期的に襲ってくる現象の一つとして固定化されてきて、いつのまにかスパンがどんどん短くなっている気がする。

 野菜、とスイッチが入ると、肉を食べるという欲求が急に影を潜めて、「肉を食べよう」と言われればまぁ食べるけど、進んで買うことはまずなくなるという。

 今日の夕飯を食べ終えた直後から始まった。

 とりあえず明日は、朝も昼も夜も、基本的に野菜ばっかり食べよう。

 あー、とりわけ。

 にんじんが食べたい。

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 また少し、リズムを変えて、文章をしばらく書きたい。

 『海』

 目の前を行き来する波はきっと、どこか遠いところから長い時間をかけてやってきて、今ここに届いているしぶきもまた、どこか遠いところの何かを含みながら、今ここにいる僕らのいろんなものを吸い込んで、そのうちにどこか遠いところにまた波となり帰っていくのだと、そんな風に思っていた。

 そして大声をあげてはのまれて消えていくことに、どことなく郷愁というか切なさのような、いわば感傷的とも思える感情を憶える。

 「ノスタルジー」

 僕は呟く。それと同時に心の中で、そんな綺麗なものでも高尚なものでもないだろう、と反芻する。それでも呟かずにいられないのが常であり、いつの間にか訪れる理由になっているような気がする。

 必要なものは何も無い。だから両手や背中に荷物を抱えながら歩き行く人々を見ていると、これからどこに行くのだろう、と首を傾げてしまう。

 「ウィークエンド」

 始まりがあるものはいずれ終わりがくる。疑い用の無い事実であり、誰がどんな存在であれ、その真理を変えることなんて出来ない。だからこそ、辛く悲しい日々でも終わりを告げるし、その先には祝福とも呼べる日々が待っているのかもしれない。

 かも、しれない。

 つまり、終わりが来るだけということもあるのだ。終わりが訪れて、また始まることの無い可能性。あるいは、再び訪れた始まりが、それまでよりももっともっと終わりを待ちたくなる可能性。

 始まりは終わりを規定することが出来ない。あくまでも希望的観測を続けるしかなく、いわば過去は未来を規定出来ない、と言い換えてもいい。

 「まるで海のようだ」

 僕らは海の成り立ちをなんとなく知っている。そして同じくらいになんとなくどんな風に変化を遂げ、どんな風になっていくかを想像している。けれど、誰も終わりを規定出来ない。

 海だけでなく、世の中のほとんどのことは同じように出来ている。

 同じように。

 「未来が、過去を、規定する」

 そういうことでしかない。

 目の前を行き来する波はきっと、どこか遠いところから長い時間をかけてやってきて、今ここに届いているしぶきもまた、どこか遠いところの何かを含みながら、今ここにいる僕らのいろんなものを吸い込んで、そのうちにどこか遠いところにまた波となり帰っていくのだと、そんな風に思っていた。

 そんな風に、思っていた。

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 もう一つ。

 『ドキュメンタリー』

 「これは作り話ではない」

 ナレーションは抑揚をうまくつけ、いかにも小説的な語り口調に感じる。こういう時に「作り話ではない、ということは、そのナレーションをいれないものは作り話で、あるいはこれは作り話であると宣言するのだろうか」と考えるのは、心が幼い証だと思う。

 現実的には、ドラマでもアニメーションでも、「これはフィクションです」というのが当たり前のように流される。僕はいつもそれを見る瞬間に悲しくなるのだ。

 僕らは、そんなに、バカじゃない。

 誰に対する宣言なのだろうと思うのだ。その話が作り話であれそうでない話であれ、僕らは様々なことを想い、多くのことを考え、幾らかの経験を感じ、少しばかりの糧としているのではないのか。

 作り話。

 作り話だとしても、その作り話には語り手の経験やそれに準ずる何かが込められ、記憶や想いを詰めている。ならば語り手にとっての作り話とは、いわば語り手の想像と創造のドキュメンタリーであり得るのではないか。

 回り回って、巡り巡って、作り話も総ては、ドキュメンタリーなのだ。

 逆に総てのドキュメンタリーには、作り話の要素が入っていると捉えてもいい。

 なぜなら、過ぎ去った過去は総て、記憶という曖昧なものに補われ、再構成するにはどこかに想像を加えなくてはならないからだ。いかにどのような形でその瞬間を切り取ろうとも、だ。

 切り取ろうとも。

 写真でも映像でも同じだ。その瞬間を切り取っているように思えて、それらは「あらゆる瞬間」を捉えているわけではないし、「あらゆる視点」を納めているでもない。時間の概念としても、感覚や感情の概念としても。

 けれど僕は。

 「総てはフィクション、作り話だ」とは言いたくない。

 それなら。

 「総てはドキュメンタリーだ」

 そう言いたい。

 ドキュメンタリー。

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 最後にもう一つだけ。

 『嘘』

 「心が大切だ」

 キレイゴト。

 「嘘はつかない」

 ウソ。

 「嘘」

 ホントウ。

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 なんか、こんな風に文章を書くのは久しぶりだなぁ。

 やっぱり、落ち着くものだね。     arlequin