インドとタイから兄が帰国し、お土産が届いて。

 毎度おなじみのジムトンプソン。最近は仕事柄、毎回ネクタイが多いのだけれども、今回もネクタイ。

 厚さやディテールが優れているかは微妙なところだけれど、タイらしいなんともこう不思議な色合わせや、柄使いがなかなかに良い。

 って、モノのことを考えていると、ここのところ変な心持ちになる。

 なぜ、モノが好きなのか。

 根本的な何かなのか、環境的な何かなのか、あるいは心の何かなのか。

 そして、モノと仕事と人と生活について、とても考えている。

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 今日は雑記。

 『震える手』

 きっとこのボタンを一押しすれば、その結果が良いもので悪いものであれ、望んでいたものであれそうでないものであれ、とりあえずある種の結論を導きだす事が出来、その結論こそが誰とも無く僕の名を呼び、何処とも無く僕の眼を捉え、いつの間にやら胸を掻き乱しながら姿を変え、悲しみや苦しみや憎悪や畏怖を生み出すものとして、この胸の中に留まり続けるものなのだと知り、いわば前身とも取れる喜びや愉しみや愛好や歓喜は言うなればそれらを生み出すための糧、若しくは原料のような存在でしかなく、つまるところ結論が生み出す次の感情はと言うと、とにかく涙を誘発してしまう類いの美しくも儚く、そしてなにより脆いものだということを、君は知っているだろうか。

 僕がこの震える手を君に差し出し、君がそれを受け入れるとして、この震えが収まるかどうかは全く分からず、しかし分からないからこそ僕は差し出すしか無く、分からないからこそ君は受け入れようとするのかもしれないけれど、いざ受け入れようと腕を構えたその瞬間、僕の震えはある意味でのピークに達し、それは単純な震えの度合いや量という問題ではなく、ただただ純然たる震えの純度としてのピークを認識し、その震えの純粋さを見ると僕はまた震えというそのものに心を砕かれ、君から少しばかり遠ざかろうと試み、まるで寄せては還す波のように、僕は手を握りしめてしまう。

 さて。

 この世界にはじまりがもしあるとすれば、終わりも当然あるものだと理解を深めているものの、では果たしてはじまりなどないのだとしたら、果たして終わりは無いのかと疑問を同時に感じ、あくまでもそれは僕たちの狭い思考ルーティンの中からひねり出される理想、ひいては希望的観測なのではないかと、穿った見方を重ねては繰り返し、最終的にはまたまっすぐに形を成し、はじまりも終わりもいらないのではないかと、力強くも飛躍的でおとなしくも創造的で、いかんともしがたい着地点を見つける。

 そこで。

 僕と君は。

 生きればいいと感じ。

 生きたいと感じ。

 生そのものを感じ。

 生きるのだ。

 震える手を。

 震える手で。

 そんな風に。

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 えーと、もう一つ雑記を書こうと思ったのだけれど、諸事情により仕事が入ったのでここまでで。

 不完全燃焼ではあるものの、正直、今もう一つの文章を書き上げるのは、少々胸にこたえる。

 随分と濃く、はっきりとしている。

 そういう文章。     arlequin