もうタイトルで 腑落ちしないことがバレバレではありますが、「奥平次郎右衛門公重」こと「奥山急賀斎」を追っていていくつか関わりのありそうな話を見つけたので備忘も含めて書いておきます。

 

1.奥山急賀斎と上田

   家系図上は、甲州浪人 上泉信綱に師事したことになっていますが、上泉信綱といえば信州上田で長野家の重臣であったことが有名です。剣術系の伝承によれば1565年に奥山神社(家系図上は奥ノ山産土之神の神社)にて開眼し奥山流を創始したことになっています。箕輪城落城が永禄9年(1966年)とされており、そうすると箕輪城落城前に上泉信綱が浪人していたことになりますが、家系図が間違っていて奥山急賀斎が上田に行っていた可能性もありうるとは思います。


(後でよく考えると、これは上野国で信州の話と違う、、、恥ずかしい)

 

2. 新野左馬之助と 信州上田の上田一族

静岡県史編さん収集資料検索システム 所蔵の 新野左馬之助家系図 によると、新野左馬之助の家系は信州上田の上田氏との関わりがあったようです。その後 上田又左衛門秀光は今川家に仕えたのちに三浦右衛門にいじめられた、とか 北条家に行った、とかの話が見えるので、左馬之助の時代には駿河か遠州にいたようです。

 

3. 井伊家家臣 向坂伝蔵こと長野業実 

上野の長野氏の後裔とのことのようです。「向坂」を遠州の有力豪族「勾坂」氏と無関係で名乗ることはありえないように思うので、やはりここでも縁戚関係があったものとみるのが自然です。


(こっちも上野の国だ…恥ずかしい)

 

ということで、 いま一つ関係がありそうでよくわからないのが正直なところです。

 

2018.5.3 おおぼけな間違いをしていたので追記しました。