西郷市郎左衛門と市川門太夫(紋太夫)は、武田勝頼が高天神城を攻めた際に、本間氏率いる西の丸に篭った武将です。

 

南紀徳川史の名臣伝中に市川門太夫について記載があり、その中に西郷市郎左衛門の記述もありましたのでご紹介します。(よく読むと剣術史の伝統で語り継がれている話と微妙な関係にあり・・・・・・)

 

1.  高天神衆⇒横須賀衆⇒紀州藩
両名とも高天神衆の記録にありますが、西退組であったらしく落城後は大須賀康高の配下で横須賀城に詰めています。市川門太夫の家系は紀州で断絶したようですが、剣の達人枠で記載があります。
 

2. 剣術の達人 at 横須賀

西郷市郎左衛門は剣術を教えており、市川門太夫は一時期その門弟であったとのことです。年齢的に横須賀城での出来事と思います。当初市川門太夫は西郷に弟子入りすることは拒んでいたものの、勝負して西郷が勝ったら弟子入りすることになったそうです。

 

勝負の場で市川は西郷を壁際に追い詰めるものの、最後の瞬間に西郷が身を躱して壁を蹴り、市川を飛び越えて後ろから市川を捉え、西郷の勝ちになったそうです。

 

3. 西郷の離脱

西郷は弟子をえこひいきしたらしく、評判が悪かったようです。そのせいかどうかはわかりませんが、その後浪人し井伊掃部(井伊直孝)のもとに仕えたとされています。

 

4.達人エピソード

市川門太夫は達人であったらしく、渥美源五郎と勝負(!)して3本続けて取ったとの話が残っています。さすがに対戦する前は緊張したらしいですが、、、他にも渥美や福岡太郎八などが気に入った八百屋との立会とのエピソードが入っており(もちろん八百屋がボロ負けしたようです)、横須賀衆が武芸に励んだ様子が伺えます。

 

5.しない

これの剣術の話を通じて「しない」が使われています。上泉伊勢守が普及させた袋しないなのか、それともその後普及した現代に近いものなのかはわかりません。