台風で大変な目に合われている方々に、心からお見舞い申し上げます。


さて武田勝頼が高天神城を攻めて落としたときに、高天神城の御前曲輪には地元の土豪が入っていました。

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以前にもご紹介した かさぶた日録のきのさんの遠州高天神城記の翻刻はこちら


このうち黒田氏については遠州高天神城記で「黒田九郎太夫義則、同玄忠入道義得(この黒田は、足利下野守義次、越前国黒田に有りて、黒田と名乗り、その子日向守は紀州に住す。三男式部少輔義理は遠州城飼郡を前代に領す。義理が四男黒田監物義重、同郡平川村を領す。その子今の九郎太夫義則まで八代なり)」とされています。

このときの記述から更に現代に至るまで、その代官屋敷は今も残っていおり(というか、御子孫のかたが今もお住まいです)。長屋門が現存しており、往時の代官屋敷の雰囲気を伺えます。資料館も併設されていて代官の業務についてよく理解できます。(酒の上の失態の詫び状の下書き等微妙な文書も展示されていますが)

さて、写真で見てもわかるとおり、屋敷の周りは堀があります。この堀は現代ではどこにも水路ではつながっていませんが、家に船着き場があり、昔は菊川につながっていたであろうことが伺えます。

黒田氏のこの屋敷は永禄年間とされていますが、上記にある通り、平川村に来る前に周辺に来ていたことが伺えます。

黒田氏以外の平川村の土豪としては、遠州三十六人衆の赤堀氏と、朝比奈八郎次郎の名前が残っています。
黒田姓の分布がどちらかというと旧小笠町と旧菊川町であることを考えると、おそらくもう少し北側に黒田氏の本拠があって、朝比奈氏が退いた後に下平川に南下したのではないかと思っています。

朝比奈八郎次郎については、有光 友學氏の「戦国前期遠駿地方における水運」によると、浜松の馬込川沿いの宇間郷とこの下平川の両方に領地があったようです。その後都筑家につかえていますので、この地を離れたとみてよいでしょう。なお、松下保綱の家系図では松下為雲の弟です。

さて、黒田氏は高天神城落城後もこの地にとどまっていたので、事実上武田方についていて、その後武田が諏訪原城を失う等劣勢になったのをみて武田方から離れ、徳川方についたものと推察します。この地で帰農したほとんどの土豪もおそらく同じでしょう。

特徴的な名字である「漢人」(かんど)の「漢人十右衛門」もおそらくその一人でしょう。現代までのこるレア名字の中心は明治維新まで掛川市と菊川市にとどまっていたようです。(関東に行ったり紀州にいったりしていれば、もう少し拡散していたと思います。)