出不精の私ですが、東京女子医大の創立者である吉岡彌生記念館の開館20周年でに小和田先生が記念講演すると聞いて 行ってきました。

 

吉岡彌生さんは、高天神城の至近の土方の庄屋であった鷲山家の分家の出身です。

鷲山家といえば高天神衆 鷲山伝八郎ですので、講演の内容は高天神城の攻防と鷲山伝八郎などの地侍、名字百姓についてになり、非常に分かりやすく説明をいただきました。そして吉岡彌生の伝記に見える歴史とのつながりで話が締められました。

 

 

高天神城戦記と静岡県姓氏家系大辞典での記載から鷲山伝八郎の一族について要約すると

  • 高天神小笠原氏(国衆レベル)の下の地侍だった
  • 武田勝頼が高天神城を攻めて落城したあと、鷲山伝八郎は大須賀康高の下で働いた(すなわち横須賀衆だった)
  • 奈良野の子孫の伝八郎の供養碑によると天正9年11月逝去とされている。
  • 子孫の鷲山武右衛門が菊川市上平川に住んで、県(あがた)と鷲山を代ごとに交互に名乗った。一時期菊川市奈良野も支配していたらしい
  • 番生寺村(金谷)、榛原の五和村(牧之原市)、土方村(掛川市土方)の鷲山氏・県氏はこの鷲山氏の後裔らしい。
  • 県氏については、合戦を富士郡に避けたとの記載があり、どうも横須賀組の他に帰農組があるらしい。
吉岡彌生記念館には土方家の家系図やその母親の説明があるのですが、母親は榛原の土方氏の出身で、平川の黒田代官屋敷(前回記事のところ)に奉公にでたあと土方に嫁いだ、とのことです。
 
余談ですが、吉岡彌生の伝記には、高天神城でお姫様が身投げした井戸をお金を探して掘り返す人の話がでてきます。これは榛原の鷲山氏から聞いた勝間田氏滅亡の時の話といつの間にかごっちゃになったのではないかと疑っています。

 

さて、これだけだと付加価値がないので、他のことも書いておきます。

 

 
  • 奈良野の鷲山家は、どうも没落したようで、 鷲山伝八郎の供養碑も無縁仏になっています。
  • 結城秀康家臣団の論文(中ノ馬場における武家屋敷地の 変遷)に、鷲山伝八の名前が出てきますので、武士を続けた家系があったようです。電話帳検索すると出てくる富山の鷲山氏がこの末裔でしょうか。
  • 関東移封についていったかどうか、徳川頼宣について紀州についていったかどうかは不明ですが、電話帳検索すると和歌山県でも出てくるので移動した一族もいたのかもしれません。