あけましておめでとうございます。(すっかり遅くなりましたが)

さて、塩の道・秋葉街道は、塩の産地である相良を発し、高橋、赤土、平川と進んで、川(菊川の支流の牛淵川)を渡り内田に進んでいきます。内田の中心は、平尾八幡宮であった、と遠江国風土記にでているようです。

 

内田は、古来から人が居住し交易や政治の拠点になっていたようです。圓城寺(三井寺)の荘園でもあり、巴御前に討ち取られた内田三郎 の出身地です。内田氏は内田の中でも高田の方に屋敷があったようなので、この平尾八幡宮とは若干場所が離れています。

その後内田氏は鎌倉時代に中国地方に栄転し、今川時代の支配者はよくわかりません。

さて、平尾八幡宮の神主の家系から江戸時代に国学者の 栗田土満(くりたひじまろ)が出ています




学者を出せるだけの有力者の家系のはずで、おそらく江戸時代初期には鷲山傳八や黒田氏と同クラスの勢力があったように思えます。

一方、高天神城が武田勝頼に攻められた際の遠州の国衆のリストに栗田氏の名前はありません。高天神城が徳川方に攻められた際の武将として栗田刑部丞鶴寿の名がありますが、平山優氏の「武田氏滅亡」によると信濃の国衆、特に善光寺の別当となっています。

以前掛川の図書館で栗田土満に関する本をみたときには、「先祖代々平尾八幡宮の神主の家系」になっていてその整合性がずっと謎だったのですが、昨年秋に読んだ「栗田土満略伝」によると、栗田家の家系図上は、このなくなった栗田鶴寿の次男及び3男が内田に定着した、となっているようです。他に2系統ある、とも。

そして、昨年末に平山優氏の最新刊の「戦国大名と国衆」には、信濃先方衆として、水内郡栗田城の国衆 栗田氏が兵数150騎でバッチリでています(29ページ22番)。150騎は、武田軍団のなかでも真田に次ぐ有力な集団です。

また、「先方衆」とは敵方(先方)から味方についた勢力であるとの解説があり、敵との境目であって、家中で分断されていたり、2つの競合勢力の両方に従属していた例もあるようです。実際、栗田氏についても里栗田(善光寺別当)は武田方でも、山栗田(戸隠山健光寺別当)は上杉側との記述があります(P184)。

ということは、やはり武田方に高天神城が落ちたあと、境目の国衆であった栗田氏の一部を 遠州に移住させたととるのが理にかなっているように思います。栗田土満の家系図では、栗田鶴寿の次男三男は落城時に城から逃げ出した、となっていますが、多分そんなことはなく、もっと早く徳川方についたのではないでしょうか。そうでなければ、鷲山氏や黒田氏レベルの優遇は徳川方からは得られないでしょう。

 

先方衆は、そういうしたたかな存在だったのだろうか、という感想をもって「戦国大名と国衆」を読み終えました。