11月23日 0時21分
入院して一ヶ月
あれだけいつもみんなが傍にいたのに
最期はおばあちゃんは一人で逝ってしまった
病院から急変したとの連絡を受けて
10分で着いたお父さんと妹さえ間に合わなかった
病室に着いた時は
おばあちゃんが一人居るだけで
最初 亡くなってることに気付かなかったらしい
私は大阪の実家に
母と弟と居て
連絡を受け準備をし車を出す時に
妹からおばあちゃんが亡くなったと電話があった
信じられないまま高速を飛ばし病院に着いたころには
おばあちゃんは顔までシートにくるまれた後で
もう「物」みたいで
それが凄く嫌だった
家に連れて帰ってから
まだ温かいのに
ドライアイスでかこまれて
冷たくなっていくのが凄く悲しかった
最後に会った時
「さおちゃんか よう来たな」って
言ってくれたのを思い出しながら
朝までずっと手を握っていた
思い出すのは小学生の夏休み
きょうだいが5人もいるので
夏休みのほとんどをおばあちゃんの家で過ごした
おばあちゃんが畑で作ってくれたスイカを半分に割って
スプーンで食べるのが最高の贅沢で
「さおちゃんは本当にスイカが好きやなあ」って
嬉しそうに見てた
お裁縫もおばあちゃんに習って
お人形の服を一緒に作ってくれたりした
私たちにも手編みや手芸で
色んなものを作ってくれた
畑仕事もよく手伝った
トウモロコシや瓜やナスやきゅうり
秋には芋掘り
近所には小川があって
魚取りにもよく行った
孫が大好きで優しいおばあちゃん
みんなもおばあちゃんが大好きで
大阪生まれの大阪育ちだけど
間違いなく故郷と思えるのは
おばあちゃんが居る場所
そこは小野という田舎の小さな町で
おばあちゃんの生まれ育った故郷
そこから結婚して神戸の長田区に移り
子供を2人持ち 家族4人で幸せに暮らしていた
それをたった4年で壊したのは戦争だ
そして自分の故郷に疎開で戻ってきた頃に
海軍だったおじいちゃんは戦死した
戦後、小さい子供2人を抱えて
保育園に住み込みで働きだした
その頃、おばあちゃんは毎晩泣いていたらしい
私が小学生の頃
「おじいちゃん、おばあちゃんに戦争の体験を聞く」
と言う宿題があった
おばあちゃんの文章には
「夫を奪った戦争が憎い」
と書かれていた
だから私は憲法9条改正の反対署名は必ずする
さらに娘さんも二十代で糖尿病を患い
早くに亡くなってしまったので
家族2人きりになってしまった絆はとても強かった
お父さんが5人も子供を持ったのも
おばあちゃんの為だったんじゃないかって思う
本当に母親想いの父で
おばあちゃんの家の裏が全焼してしまった時
ご近所の人がおばあちゃんを救出してくれたんだけど
一人で逃げることも出来ない母を一人にしておけないと
定年退職を待たずに退職しおばあちゃんと暮らしだした
それまで「男が台所に入るな!」って言うほどの
亭主関白で料理の1つも出来ない父が
おばあちゃんの為に料理を覚えた
その頃はおばあちゃんもまだ
パーキンソンを患ってなくて
意識がハッキリしてたし
散歩に出たり出来たし
息子と暮らし、たまに孫とひ孫が会いに来る
凄く幸せな日々だったんじゃないかなって思う
「君が代」を歌うと必ず鼻を真っ赤にして泣き出すおばあちゃん
童謡が好きでよく一緒に歌ったね
認知症とパーキンソンを患って
昔のおばあちゃんのままでいれる時が少なかったけど
急に意識がハッキリした時に
「忘れたくない」と泣いたこと忘れないよ
おばあちゃんのせいじゃないからね
おばあちゃんがもし忘れてしまっても
優しくて可愛かったおばあちゃんを
みんなちゃんと覚えてるから
告別式の日に
不思議なことが2つ
10年前くらいにおばあちゃんが腰で入院した時に
一人で千羽鶴を折ったんだけど
それを棺の中に入れてもらったら
灰となるだけと思っていたのに
鶴の形が残っていて
しかも羽が閉じた状態だったのに
焼けて羽が広がってた
みんなビックリしてた
CHARAの楽曲の中に
「愛の絆」って歌がある
CHARAのおじいちゃんが亡くなった時
亡くなったおじいちゃんと残されたおばあちゃんに贈った歌
この曲を聴いて想う
おばあちゃんは
私の中に居る
おばあちゃん
たくさんのものを残してくれて
本当に本当にありがとう
おじいちゃんと結婚生活の続きしてるかな
してるといいな