僕のご先祖が小野田に転勤になったときの話(1863年下関事件) | クランのブログ

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難病(慢性血栓塞栓性肺高血圧症)を抱えながら医学部目指してます

僕のご先祖はもともと毛利家に仕えていた侍で、


遡れば毛利元就の時代から殿様の護衛を務めていた、


家禄250石の中級の武家でした。


前の記事に書いたご先祖は、


幕末の動乱の影響をもろに受け、


そのときの様子を日記で書き残してくれています。




10代の中頃はこのように普通の侍として、日々稽古に励んでいました。


しかし、


1863年5月に、攘夷運動により、長州藩は外国船に砲撃を加えます。


そして、1863年5月下旬に、僕のご先祖(10代目)が前田砲台の指揮を藩の命令により任され、


前田砲台に到着した5月30日の、その翌日の6月1日、


長州の攘夷運動で被害を受けたフランスが、


報復のため、僕のご先祖が守る前田砲台に攻め寄せてきます。(これがいわゆる『下関事件(下関戦争 )』)


そのときの様子( 僕のご先祖(11代目)の日記を勝手に現代語訳 )↓



『夏に至りて、攘夷の御布令があった。


5月下旬、父(10代目)に従って下関に出張をし、数日後、父は前田砲台の指揮を奉命した。


5月30日、前田砲台に到着し、翌6月1日、フランス軍艦が田浦沖に襲来。


フランス軍艦2艦のうち小さい方の軍艦が瀬戸内海に入ろうとしていたので、


距離を計り、その胴腹をめがけ、


父は左手四番砲台へ、私は三番砲台に駆け、指揮を執り、一同発射砲撃を始めた。


先程の小さい軍艦はもとの位置に戻り、


互いに砲戦すれど、こちらの砲弾は相手に届かず、フランス軍艦の砲弾は盛んにこちらに着弾した。


ついに、二番砲台照準者、山内堅太郎が額を打ち抜かれ即死した。


その後、二艘のフランス軍艦は小艇を降ろし、陸戦隊一大隊を上陸する準備をし始めた。


しばらく様子を見ていたが、やむを得ず砲台を退き、


後ろにある立山を越え、物頭役、羽仁又左エ門が引率していた足軽兵に、


ゲベール銃に弾を込めさせ、一小隊を編成した。


散兵にして、山林の松の間を再び進軍していった。


フランス陸戦隊は上陸し終わり、約100メートル先の山林松樹の間に陣を布き、


こちら側に発砲してきた。


よって、兵に発砲を命じ、小銃で激しく撃ち合った。


午後5時過ぎになり、互いに兵を引いた。


長府公城門の前にある寺で兵とともに一泊し、


関小太郎が左腕に敵の銃弾をうけたので、


病院へ入院した。


翌2日、本陣海安寺へ出張の総奉行、國司信濃太夫に戦況報告し帰営した。


その後、父が本山砲台の指揮を奉命したので、一緒に帰宅した。


下関にも交代の兵が来た。』



日記はまだまだ続きます。


が、


かなり要約すると、


この下関事件の後、


このご先祖は大村益次郎 の私塾で近代兵法や算術、語学などを学び、


幕府軍との戦争で各地を転戦していきます。


そして、大阪城で兵の訓練をしているときに、


長州征伐の最中にも悩まされた下痢がひどくなり、


僕が今お世話になっている、当時にも存在していた病院で診察を受け、


これ以上の参戦は無理だと、診断を下され、


山口に帰国。


そして、廃刀令を迎え、小野田に寺子屋を開きました。


各地を転戦していったこのご先祖でしたが、


その人柄を知るひいじいちゃん曰く、


『かなり穏やかな性格の人だった』と言っていました。


ちなみに、


この日記を記した11代目のご先祖の息子(12代目)は、


1800年代後半のときに、イギリスへ留学し、数年間心霊科学研究をし、


その息子のひいじちゃんは、


第二次世界大戦のときに、空襲で街や自分の勤めていた研究所の周りが火の海になっている最中でも、


自分一人だけ研究所に残り研究を続けていたという、かなりの変わり者でした。


僕の父も兄も、少し変わっていますが、


この変わり者の気質は先祖から受け継がれているみたいですにひひ