永延の幸せについて | .. .. .. ... . ........ ... ...運命の超意識
※この記事は、2013年5月17日に、
公開した記事を加筆訂正したものです。





多くの人は、
愉快な気分の次に不愉快な苦痛がやってくるのに気づけないでいます。


愉快に感じることは永遠の幸せではない、どんなに気分が浮かれていても、

心の奥底に漠然とした重苦しいさや不安が横たわっていることを知れば、
認識の修正もできるようになります。



地位も
名誉も
財産も

所有できたと思っているものはすべて、いずれ無くなってしまいます。


そう感じるとき以外でも、
私たちはいつまでもいい気分でいられないのを察知しています。



常に借り物の刺激を与えてくれるものを、
すぐにまた探さなくてはと痛感しているわけです。


快感は貪欲な悪魔のようなもので、絶えず餌を求めます。


しかし、長つづきする幸せや至福の喜びは、
うつろやすい快感とは似ても似つかないものです。




インドの古代の英知を西洋へ伝える
最も偉大な使者の一人と見なされたパラマハンサ・ヨガナンダは、



『宗教の科学』の中で、

「それゆえ、人類の真の目的は、
苦痛を回避して無情のよろこびを得ることであるにもかかわらず、

人間の致命的過ちのために、苦痛を避けようとしながらも、
快楽という気を紛らわすものを追い求めることになることがわかる。
それを無上のよろこびと勘違いしているのだ。


快楽ではなく無上のよろこびを得ることは、
宇宙の高次の必然性である。

それは、快楽の目的をひとつ獲得しただけでは満足できないことが、
間接的な証明になっている。



人は絶えず次から次へと飛びつく。
金からきれいな衣服へ、きれいな衣服から財産へ、
そして結婚の喜びへと、落ち着く暇もなく延々と。

そのため、自分なりに正しい方法で苦痛を避けようとしたとしても、
つねに苦しい思いを強いられる。


それでも、名状しがたい満たされない欲求は、
いつまでも心の中に居座っているように思われるのだ」


と語っています。




こうしたことはなにも、
あなたが人生を楽しむ権利を否定しているのではありません。


むしろ、その正反対の作用をします。
刹那的な快楽に依存しなければ、永続する楽しみが見出せます。



回りのどんな人も環境的な条件も、
この内なる喜びを奪うことはできないからです。



私たちは、
自分には人生のスケジュールを埋めつづける役割があると、
考えます。


遊んでいても堅苦しく、まるで義務的に行うのです。
ぞっとしませんか?


ほとんどあなた以外の他の誰かから刷り込まれたもの
であるにもかかわらずにです。


レクリエーションと言いながらも、
その多くが妙に脅迫的なのに気づいたことがありますか?


遊んでいても負担に感じるのは、
気ままに楽しもうという自由な気分から始まったのはなくて、
義務感からしぶしぶ行っているからです。



本来、私たちの魂は陽気なのですから、
遊びは遊びとして、楽しむべきであることを知ってします。




これまでの時代は、
まじめに目的や目標を追いかけていれば、

いずれ幸せは自分の元へ運ばれてくると
思いつづけることができたかもしれません。



しかし、行動の中に一種独特な無目的性があったときにこそ、
私たちは人生の本当の目的や喜びや永続する幸せを見出せます。


あなたも、臆せず遊びに興じて目を輝かせてみませんか?