小林です。
今年に入ってから、
昔描いた絵画作品が、手元から離れて行くという流れが、
自然に起こっています。
30代を賭けて、
プロとしてお絵描きに没入した結果、辿り着いた哲学は、
「だから、どうなの?」
という一見味気ないものでした。
この言葉のあとには、
「(どうせ、死ぬんだから、)」
という否定的な言葉が続きそうですが、
そうではなく、
創造の過程で、こだわらない練習ができたお陰によって
「それ、どうでもいい」
という過ごしかたに巡り会えたのです。
最終的に、「(どうせ、死ぬんだから、)」
というこだわりも無くなることで、
人生が以前より、楽に生きられるようになりました。
私たちの脳は、実際には“死”を決定的な境界として、
意識はもはや連続しないのが現実であるにもかかわらず、
あたかも死後の自分の肉体をも連続的に、この意識によって
認識できるかのように思いこみやすいのは、
生と死の断絶という無常を私たちの脳が拒みたがるからです。
またあたかも自分の死後も意識が肉体から抜け出て、
霊魂のようにそこらへんに浮遊して残存しているかのような、
「連続的錯覚=迷信」
という半脅しがあるからこそ、
生きているうちに善行をすべきという考えが生まれます。
そこでは、
“自分の魂”が死後の世界で救われたいという願いが前提にあります。
もちろん、この発想がカルマ(因果律)の解消を行うべきだ!
という仏教思想の大元になっていて、
現代において個人的に、もはや宗教は露払いのようなものだと
感じられてしまう理由です。
これは脳が3次元化するインターフェイスであることに気づくと
簡単に導き出せる現象だとも言えます。
つまり、死という概念は生きている脳が創り出しているわけで、
死後の世界も脳が完全に機能しなくなった瞬間に幕は閉じます。
ですから死んだらもう、今回の一生のことはズバッと終了で、
霊魂も死後の世界も何も知ることができず関係ないのが本当で、
前世の記憶を辿ることができるのも生きている脳のお陰と言えます。