はるか昔、世界の多くの地域で一般庶民は読み書きが禁じられていた時代もありました。
その後、禁止はされなくなっても、学ぶ機会がないために人口の大部分が文盲だった時代は長くありました。
その後資本主義が発達すると、労働に読み書き、計算を始めより高度な知識や技能が求められるようになって、教育システムが発達しました。
それでは、現代に生きる私たちは、最大限に能力を発達する機会が与えられていたと言えるのでしょうか?
私たちが受けてきた教育システムというのは、工業がシステム化されたことに対応したものでした。
端的にって、ベルトコンベアーの前に並んで流れ作業をするような労働力を大量生産するシステムだったといえます。
だからマニュアルを読んで理解し、報告ができて、規律正しく働くための学習と訓練の場だったといえます。
私たちは、子供の頃から当たり前だったのに、ほとんど疑ったこともないのですが、なぜ遅刻をすると叱られたのでしょうか?
学校で遅刻しても、授業の開始を待ってくれるわけではありません。ということは、遅刻しても人に迷惑をかけたわけではありません。なのに、なぜ叱られたのでしょうか?
学校の先生自体も説明できないかもしれませんし、そのつもりではなかったと思います。しかし、将来、働いている時に、遅刻して生産ラインが止まれば、損害を与えることになります。
時間を守るという一見当たり前のことでも、子供の頃から訓練が必要だったのです。
だから今でも世界の中には、遅刻が当たり前、時間を守れない地域はたくさんあります。
現代に生きる私たちが受けた教育というのは、ピラミッド型の上位げたつ組織に組み込まれて、規律を守り、マニュアルや指示に従って働く労働力の養成課程だったのです。
だから、自分のアイデアを育てて新しいものを作る、自分なりの意見をまとめて発表する、ディスカッションする、などの能力を育てる機会は、皆無だったといえます。
人間以外の生物は、ほぼ生まれつき適応戦略は決まっています。しかし、人間は生まれ育った家庭環境を世界の縮図として、適応戦略を形作ります。
そして、いい子でないといけない、大人しくしないといけない、遠慮や我慢をしなければならない、などなど枠をはめられて育ちます。やりたいことよりもやらなくてはいけないことを優先するようになります。
こうして潜在意識に、プログラムが作り込まれてゆくわけです。
よく、機能不全家庭で育った、毒親の元で育ったという人が大人になっても生きづらさを抱えているケースがありますが、そういう事例に該当しなくても、潜在意識には数多くのリミッターが埋め込まれているものです。
そして、AI化に伴って、マニュアル化された仕事、指示通りの仕事のほとんどが置き換えられようとしています。
そして、創造性、構想力、共感能力、コミュニケーション能力など人間ならではの能力発揮が求められるようになると考えられるのですが、こうした能力は、内発的動機によってこそ発揮されるということが分かっています。
内発的動機を持っていない人はいません。それは、子供時代に夢中になって遊んでいた時がその状態です。その時に最もないの発達が促されているということも研究でわかっています。
しかしいつしか遊びたい欲求を抑えて、やななくてはならないことを我慢してやることに慣れてしまい、自分が何をしたいのか見失ってしまいます。
やりたいことで価値を生み出し社会に貢献するためには、多くのリソースの蓄積が必要なのも確かです。しかし、自己実現に向かおうとしても多くの制約に阻まれ、萎んでしまうことも多いものです。
潜在意識に埋め込まれた多くのリミッターを外して、自分の最大限の可能性を生きるのをサポートするために研究開発したプログラムが、ヒューマン・ポテンシャル・リベレーションです。
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