文化的な死
死においてなぜ人は、逡巡するのか??
そして何故、老人は死をゆったりと受け入れられるのか??
今の時点での回:
文化的な一つ一つの死が最後に残ったタンパク質の塊である肉体に引導を渡す憂いを無くす。
文化的な死の種類:
・物
・行動
・人
これらが必要最低限になった時、どういった心境になるのか??
死を無理なく受け入れる心境になるのか??
もしかして、新たに生き物としての行動が始まるのか??
実例:実際にはなにをするのか??
会社の定年のように、文化的な死を各それぞれに設定していく。
物:お寿司はあと2年で終わり とか
行動:ゴルフはあと2年でやめる とか
人: 親しい間柄の人間(特定の人)、来年いっぱいで、二度と会わない とか
孫の運動会は今年いっぱい とか
そう決めることで、いろんなもの(今)を大切に出来るのではないだろうか??
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これはある仮説から発生した。
がん患者のようにけつが決まっている人のほうが、安心感のある死を迎える事が出来る。
(迎えられないのは、やり残した事、憂いがあるからである)
それはなぜか??
すべての物事には終わりがあるという事を悟れるから。
がん患者は期間が短いが、これを10年くらいかけて、ほとんどの文化的な死を行い、
タンパク質の塊になった己がどういう心境になるか、知りたい。
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実際にばあちゃんを見てきて、そう思った。
年寄りは子供と逆。
子供は毎日できる事が増えていくが、年寄りは毎日いろんな事が出来なくなりあきらめる。
それを長期間にて味わうことにより、死への準備ができるのではないだろうか??
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これをさっそく今年から実行してみたいと思う。
考えただけで、昨日から38度以上の熱が出てきたw
おれは、ホントに怖いんだろうなww