紅麹が可視化するもの③~アベノミクス群衆~ | ブロッギン・エッセイ~自由への散策~

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アウシュヴィッツが陸の上のジェノサイド,ヒロシマ・ナガサキが空からのジェノサイドだったとすれば,水俣病は海からのジェノサイドである。(栗原彬編『証言 水俣病』)

 前回は「国家独占資本主義」という,ちょっと古めかしい概念を持ち出してアベノミクスを総括したのだが,古いからといって役に立たないとは限らない。古かろうが最先端だろうが,理性的思考と批判的精神を深め進化させていくのに必要であれば使っていくべきだろう。その意味で,30年近く前に書かれた故・今村仁司の群衆論は非常に面白い。全く古くなっていない。これを読んで,「群衆」は現代をとらえるうえで決定的に重要な概念だと確信した。今村の群衆論はこれまであまり注目されてこなかったように思うが,たぶんこれは今村の最高傑作ではないかと思う。

 

 今村は近代社会の実体もしくは根源として群衆を見ている。

 

近代の歴史は,とりわけ十九世紀以降の歴史は,群衆の歴史といっても言い過ぎではないでしょう。・・・近代社会で経験的実体にあたるものは群衆しかないでしょう。

 

近代社会は生誕と同時に,自律的個人の理想を掲げながら,同時にその理想的個人を否定し呑み込む巨大な近代群衆をも生み出してしまう。そして,近代社会は自分が生み出してしまった群衆を自分ではどうにもできない,そうしたジレンマに陥ります。

(今村仁司『群衆——モンスターの誕生』ちくま新書p.8,p.10,p.148)

 

 ところで,群衆と似た言葉に「民衆」がある。民衆という観念は理想主義的なもので,すなわち個人の自覚を持ち,自律して合理的な生活を営む人々の総称であった。民主主義は,こういう民衆の理念を基本に考えられた仕組みである。ところが,こうした民衆が消滅していくのが近代の大きな傾向なのだと今村は言う。

 

群衆が民衆を呑み込み解体し,あらゆる個人をの一部にしていきます。こうした人間の塊は民衆の理念からかぎりなく遠いものです。

(同書p.151)

 

 群衆とは,このように民衆を解体してできた個別的差異のない「人間の塊」「人間の群れ」を指す。では,「大衆」はどうか。大衆なるものも所詮は群衆(=「人間の塊」)にすぎない。「大衆民主主義」と肯定的によばれるものは,実は群衆による民主主義なのだ。大衆民主主義=群衆民主主義は,トクヴィルによって「多数者の専制」として特徴づけられるものだ。トクヴィルの言う「多数者」とは群衆=「人間の巨大な塊」にほかならない。大衆(群衆)民主主義は,このような個人的な差異が消滅した「人間の塊」によって行われる専制政治なのである。つまり,群衆はデスポティズム(専制政治)を生む。トクヴィルが大衆民主主義を「民主主義的デスポティズム」と呼ぶゆえんである。

 

 一方で,群衆をプロレタリアート(労働者階級)として鍛え直そうとするマルクスは,「プロレタリア独裁」を提唱する。

 

 トクヴィルとマルクスが群衆から導き出した「民主主義的デスポティズム」と「プロレタリア独裁」は,20世紀に「全体主義国家」として現実のものとなった。全体主義国家とは,群衆的なデスポティズムであり,群衆的な独裁国家である。このような群衆国家では,「人間の塊」として情念の同質性が基調とされるから,それに同調しない他者や異者は次々と差別され排除されていく。大切な点は,専制や独裁が群衆を作り出すのではないということである。群衆が専制や独裁を生むのである。

 

地球上のあらゆる地域で,ナショナリスト群衆が自らの胎内から「指導者」を産出し,両者が提携して「全体主義国家」を作り出してしまいました。

(同書p.185)

 

 ここで言う「指導者」とは,例えばイタリアのムッソリーニ,ドイツのヒトラー,ソ連のスターリンである。こうした指導者=独裁者は,民衆という自律的な諸個人によって選ばれた代表者ではなく,群衆という名の「畜群」から生み出された「群れの番人」である。

 

 改めて近代の群衆を定義してみると,どうなるか。今村は次のように言っている。
 

群衆はあらゆる人間の個別的差異がすべて溶けて消え去る場所である。

(同書p.187)

 

 これは,近代群衆の本質を最もよく表したセンテンスであろう。では,そもそもこのような近代群衆はどのようにして生まれてくるのか。今村によれば,それは資本主義との内面的な結びつきにおいて生まれてきた。近代群衆は資本主義的市場経済なしにはあり得なかったのである。

 

 それでは,市場経済とは何か。今村によると,

 

市場とは異質存在を等質存在に変換する装置である。・・・価値形式あるいはそれの実現空間としての市場は,万物の差異の焼却場であり,万物の等質化装置ないし機構なのである。

(同書p.186~p.187)

 

 市場化と群衆化は連係しながら,人間たちを個別的差異の消えた等質的な存在に変えていき,情念的にべとべとした「もち団子」的な共同体=群衆国家の形成に導いていく。先ほども述べたように,同質的な情念を持った群衆に支えられた国家は,マイノリティや異端者,外国人などを差別し排除する。このような群衆国家は,ナチズムのように,虚構の人種や民族を作り出して,その「最終解決」として絶滅作戦を実行することさえあり得る。

 

 さて,ここでアベノミクスについてもう一度考えてみよう。すなわちアベノミクスとは,国家と大資本が結託して労働者を支配し搾取する国家独占資本主義の下で採られた経済政策であった。群衆という観点からみれば,アベノミクスの下で国家への同一化とナショナリスト群衆の形成が進んだと言ってよい。アベノミクスの時期を思い起こしてみるとわかりやすい。それは,安倍信者のネトウヨたちによって「嫌韓・反中」の偏ったナショナリズムが異常な高まりを見せた時期であった。

 

 そういうナショナリスト的な群衆を生み出したのは,構造改革とか規制緩和といった市場経済化の徹底(=新自由主義)であったといえる。社会のあらゆる領域が価値形式(商品・貨幣・資本の形式)に支配されることで,等質的な情念を持った群衆が形成されていった。等質群衆は指導者を求め,それを内部から生み出すと同時に,その指導者にこぞって皆が同一化することで互いの同質性を確認し合う。安倍はそういう群衆の指導者として立ち現れてきたのであった。

 

 アベノミクスは,実は群衆が生み出し,群衆が支えてきた政策だったわけである。こうしたアベノミクス群衆は,安倍が死んだ今でもまだ死んでいない。むしろ活発に蠢いているといってよい。

 

 例えば,偽イスラーム学者の飯山陽(アカリ)が今度の東京15区補選に立候補できたのもアベノミクス群衆の支持があったからである。イスラームに対する恐怖や嫌悪を潜在的に抱えていたナショナリスト群衆が,自らの胎内から飯山陽という反イスラームのモンスターを生み出したのである。こういう人物が安倍のように群衆の指導者として政治家になれば,いよいよこの国は全体主義国家に近づいていくことになる。イスラモフォビア(イスラム嫌悪・恐怖)という等質的な情念が人々を覆い,それに同調しない者たちは差別され追放されていく。そして最終的にはナチズムのように外国人や異教徒,障害者,病者などに対して「絶滅作戦」が実行されるであろう。

 

 飯山の所属する日本保守党は結成まもない札つきの半グレ政党とは言え,決して侮れないのは,背後にアベノミクス群衆が控えているからである。だからこそ今度の補選で,アベノミクス群衆もろとも叩きつぶしてしまわなければならないのである…