【日本語の始り】を解明しました!! | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!


                                    (2023年=令和5年5月24日・水曜…小島 宏/75歳)

【追記】(023年=令和5年6月2日・金曜)~

…日本書紀の底本『ホツマツタヱ』(姉妹書・ミカサフミ)が作成されたのはAD4世紀中頃以降であり、「縄文時代」とは全く無関係です。

 

つまり、崇神天皇(ミマキイリヒコ)12年(AD351年)以降、それ迄のヤマト国家の歴年史が書き換えられた事に起因します。それは、AD70年にエルサレム第二神殿が陥落(ユダヤ国の滅亡)した事を知ったIAΩ(ヤオ/八尾市の語元)の大祭司アラヒトは、エルサレム第二神殿陥落の翌年(AD71年)をヤマトの歴年史に接続する為に新たに【ホツマ伝】と【ミカサ文】文書を三輪氏と春日氏に作成させました(崇神12年=AD351年以降)。その第二神殿陥落をヤマトの大祭司(サドク系祭祀)が知った経緯は、垂仁天皇の時として登場する田道間守(タジマモリ)が常世に行った物語に関連(橘のルーツは沖縄迄は解明済)する。又、その当時以後に書かれた聖書【第4エズラ記】(第2エスドラス書)に記す【アルザレト】(もう一つの国の意/その旅は一年半もかかった。その土地の名はアルザレト)文面にも関連する。つまり、垂仁天皇の崩御の翌年在位通歴731年=景行天皇即位元年をユダヤのエルサレム第二神殿陥落の翌年AD71年に合致させる為、それ迄の皇暦在位年(731年)を「660年」(サコクシロの語元数価)過去に遡り、観念的に接続し景行天皇(ヲシロワケ)元年として当てました。従って、神武天皇即位年(幻の西暦1年目.辛酉も自ずと「660年」過去に下げられる事となる。因みに、景行天皇即位年が【幻の西暦71年目】に当たる事は、当時の伊勢神宮の内宮(皇大神宮)荒木田神官は知っていました。その証拠は、伊勢神宮の荒木田神官が代々書き綴っていた文書『太神宮諸雑事記第一』の景行天皇条に書かれています。つまり「景行天皇28年」は、世界暦に照らし合わせれば後漢(中国史)の「章和12年」和帝の永元11…満10年=AD99年と記している箇所。要約すれば~「和帝永元12年=AD99−景行天皇28年=AD71年」となる。つまり、景行天皇の即位元年は「幻の西暦71年目」に当たる事を当時の伊勢神宮の神官は既に知っていました。然し、当時は未だ西暦年は存在しません。因みに、西暦年の設定(コンプトゥス・パスカーリス/復活祭計算方式)方式、つまり、「563年」(復活祭1巡年から太陰太陽暦19×28=532+キリスト受難年齢31=563年)を過去に遡って設定されたからである。

 

…因みに『太神宮諸雑事記第一』(ダイジングウショゾウジキ)とは、伊勢神宮の創建(雄略天皇21年=AD477年)から平安末期迄の主要事項を、編年体で皇大神宮(内宮)禰宜の荒木田一族が書き継いだ文書である!!

~以上(追記終り)!!

 

 

…我が国は、何故【ヤマト】と言い、国語【ヤマト言葉】はどのように設定されたかは未(イマ)だ謎とされている。然し、神社の【千木】の形状と語元(黎明の意を有す語源の意ではない)の解明を以て、その解読の糸口を見出しました。因みに、私が【日本語の始まり】が知りたいと思ったのは3歳初夏(昭和25年)の或る朝、何時も遊んでいた浜辺の木に咲いた花の美しさに感動し、名前を知りたいと思った事(黄色い花と言うだけで誰も花の名を知らなかった)。そして小学1年の春の或る日、我が家(佐賀県伊万里市山代町立岩字浦ノ崎の塩浜海岸際に位置していた叔父の瓦製造所)の発動機船(瓦原料の土運搬船)の上で仰向けに寝て空を見ていると、一瞬、太陽光線が額を貫き~【自分にしか出来ない事がある】~と言う「カミの啓示」が私の頭に刻み込まれた事( http://erusaremu4654.jugem.jp/?eid=2 …【ハマボウの花の下で】より)に起因する。それで、26歳(昭和48年)の時に大阪で脱サラし、自由な時間を確保しての【自分探しの旅】の途中、神社の【千木】の形状と語元の解明(39歳)に成功しました。従って、生活を立て直す為に再度サラリーマンとして働き、その休日等を利用し世界的先史資料や文字の起元に関する資料等(主な資料は最後に掲載)を収集し、定年退職後(62歳/2008年のリーマンショックで退職を余儀なくされる)に纏めに取り掛かり、その研究内容をブログ(  http://ameblo.jp/erusaremu464/ )で投稿しつつ、現在(75歳)に到っています。

…神社の社の【千木】は、ギリシア文字【χ】が元形で、その文字数価【千】(アッティカ頭音法χίλιοιの頭文字)が語元(黎明的語意を有す語源ではありません)であった。又、国称【ヤマト】(東方に於ける理想郷国/預言=エキエル書43・1~2…ISRAELのGodの栄光は東の道から来た)とは、その創建達成時点を【山の頂上】に例えて第一歩を踏む意を【ト】(踏む元の意/麓の語元)言うを以て、【ヤマト】(三角数カバラ数価294はQumran(クムラン)祭司勤務24組周期年と同数)と言う。又、別称【日ノ本】とは、紀元前133年にエーゲ海の東(フェニキア語Asu=東/西はereb)に位置す Pergamon(ペルガモン)王国が共和政ローマに遺贈された事で、Asuの地名接尾辞ラテン語iaを付し、行政上のAsia(アジア)が誕生した事(日ノ本はヤマトと同義語)に起因する。従って、神武(タケヒト)天皇即位元年を「紀元前660年.辛酉」とするのは間違いである。  

…我が国最古の歴史書とされる『日本書紀』(古事記は歴史書でないので此処では言及しない)とは、【日本紀(ギ)】(逸書/養老四年=AD720年に元正女性天皇に奏上)の写本(清書前の下書をも含む)が、早速、翌年に行われた【日本紀】講筵でテクスト的に使用され、その後の例会でもテクスト的に使用された文書や複製等を明治30年~明治34年に経済雑誌社が刊行(国史大系)した本である。従って、現存『日本書紀』は「上代(カミヨ)の年代」(三百萬年で終焉する暫定鈴木暦年数で記載)が欠損しているのである。然し、その欠損部分は、【名文抄】(少量で散逸しやすい文書を中心に古代から近世迄のあらゆる貴重な文献を網羅した続群書類従書に記載)に記録されている。つまり、【逸書・日本紀】は【ホツマツタヱ】(1966年=昭和41年に再発見・姉妹書【ミカサフミ】の元典である~

 

因みに、その双書【ホツマツタヱ】と【ミカサフミ】の発見者は聖徳太子であった!!

 

 

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