【邪馬臺(台)国】は移動(残った吉野ケ里遺跡)しました~!! | 「伊万里」(佐賀県)から発信する日本の国語【ヤマト言葉】の始りに付いて!!

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★「日本建国創建史」に於ける【カシマ】(カバラ数価189/佐賀県鹿島の語元)は、Godヤハウェ(数価26)勧請に先立つ社殿(H・IKL数価65が家の語元)を守護する天使(サンダルホン数価280)を示唆する呼称であった!!

★【邪馬臺(台)国】は移動(残った吉野ケ里遺跡)は移動しました~!!

肥前(佐賀県)の【邪馬臺(台)国】は、九州から東(近畿・ヤマト政権)へ移動しました。その移動後に残った遺跡が佐賀県の「吉野ケ里遺跡」(当時、日本の表玄関に当たる伊万里湾を本拠地としていた豊玉姫の父だった海神ハデツミ氏族の統括地/子孫の住吉氏族は近畿に移動しヤマト政権を担う)です~

【邪馬臺国】とは、『後漢書第八五・東夷伝第七十五巻』(後漢時代は王莽政権が終わったAD25年~AD220年迄)に記載された国称です。又、その女王「卑弥呼」とは、後漢の「桓帝~霊帝の治世」(AD147年~AD189年/魏志倭人伝の末廬国=九州北西部の松浦国に関連する)に初めて設定された世襲制としての呼称です。

その後漢時代が終わって約50年を経た「魏国の景初2年」(日本は景初3年=西暦239年と記す)に魏国に遣いを出した時も「世襲呼称・卑弥呼」は存続していたので魏国は国称は使用せず【女王の国】と記す。つまり、後漢書に記された「邪馬臺国」の国称は後漢時代が終わって以降、一度も使用されていません。因みに「邪馬壹(壱・数価1)国」とは、「ヤマ・ヒ(倭語数価1)国」(ゲマトリア数価714は伊勢神宮建立年予定年数価/ダニエル書の秘儀数価1191-714=AD47年に予定通り伊勢神宮は建立された)の意であり、「ヤマトの語元文言」であった。

従って、後漢が滅んで約50年を経た魏国の景初2年(日本は景初3年=西暦239年と記す)に遣いを出した時も、更にその後の正始8年(AD247年頃の我が国は祭祀期間294年とする宮中での祭祀期間中だった)に使いを出した時も【女王国】と記し、「邪馬臺国」の国称は使用されていません~

魏国時代に於ける当時の我が国の「女王・卑弥呼」(宮中ヤマト祭祀12巫女を統括する女王/鬼道=宮中祭祀はAD57年後漢の金印授与年~AD351年迄の294年間行う神事/ヤマトの語元神事)が死去した後に立った「13歳の宗女・壹与」(壹与=壱与/正始八年=AD247年)とは、我が国の「第6代考安天皇の后オシ姫」(13歳で立つ/籠名神社祝部氏系図のヨソタリ姫の宗女)の事である。

「邪馬臺国」(後漢時代のAD189年)初代「卑弥呼」が立った年から約58年を経た魏国の正始8年(AD247年は宮中ヤマト祭祀時代)頃には、先ず、世界最初の日の出地域(ホツマ国=東北南部)から近畿に向けた道の整備が一通り終っていて、次の段階として河内を居住地としていた「大祭司ΙΑΩ(八尾)のアラヒト」の指導に因る地元のMesopotamia(メソポタミアの語意が河内の語元)の開発に国力を注いでいました~!! 

 

「宗女・壹与」(イヨ/13歳)が立った年から104年後(AD351年/崇神天皇12年)の時として発せられた詔~「ミコトノリ ⇒ 肇(ハツ)国知らすミマキ(崇神天皇)の代」ホツマツタヱ・34章)を以て、それ迄は小国連合体制から国家体制とする国称「ヤマト」に因る政権を確立させると共に、その「ヤマト国家・創建史」に到る物語が創作されました。つまりそれは、創世記49・9~10に記す「IBAΣΛH」(カバラ数価358・イエバシロー/メシアが来る)預言文言の成就として、尚、具体的な物語としては~「反逆者の長髄彦を討伐する物語」(6年戦争はハルマゲドンの模倣/死海文書のメルキゼデクの恩頼に起因する)である。従って、崇神天皇12年(AD351年)から過去へ358年遡り(紀元前7年)、長髄彦討伐(6年戦争=ハルマゲドン年)の暁として「神武天皇(幼名タケヒト)の即位」元年(メルキゼデクの恩頼(=ミタマノフユ/カミから受ける恩徳、御加護、恵み深い賜物)と定義する物語である。

★【追記】(2023/07/19・水曜)しました~

【邪馬台国】とは、現在の佐賀県「吉野ケ里遺跡」の事である!!

日本人の聖書として書かれた【秀真伝】(ホツマツタヱは『日本書紀』底本)に因ると~「無くした兄の釣り針を探す為に海幸彦は乗っていた鴨網(中型の鴨船)を捨てて行き到る、祖をハテカミ(海人/豊玉姫の父)の瑞牆(九州32国の統治者=海神ワダツミの宮殿)や、ウテナ(台・臺)輝く」(ホツマ・25章)~と記している。つまり、その「ウテナ=台&臺」の意が『三国志』魏志倭人伝に記す【邪馬台国】の事である。

因みに『三国志』の【魏志倭人】冒頭は~「倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時(後漢AD57年奴国&AD107年面土国)有朝見者(此処迄は後漢時代/AD220年迄の出来事)。今(三国時代のAD239年頃)使譯所通三十國(九州全体の国)~と記すされている。

 

『後漢書第八五・東夷伝第七十五巻』(倭人伝

( https://zh.wikisource.org/.../%E5%BE%8C%E6.../%E5%8D%B785... )

因みに、【ιαω ΙΑΩ】(八尾の語元)と言う文字は、【死海文書】(1947年・クムラン洞穴から発見)の断片文字として発見(Q第4洞窟レビ記3・12&4・27の断片

文字)されています。

 

 

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