林野城 | 根多帖別冊 by おしろまん

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絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
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先日、ZOOMお城会「諸説あり」で「上半期のNo.1山城」というテーマがあり、ぼくが紹介したのが美作林野城であったことを述べた。

 

相変わらず「何故その城をチョイスしたん?」という質問を受けたということは発表のなかでそれが伝わらなかったのでしょう。

院庄など美作守護所近辺の津山盆地から離れた、東の拠点となるのがこのあたりだと思われます。後藤氏がまず三星城を築き、程なく支城として林野城が築かれたらしいです。

二城の距離は800m程と至近ですが、川を挟んで三星は勝田郡・林野は英田郡。

赤が三星城で緑が林野城ですが、三星城は北側中腹に折れのある凝った土塁があるが、主郭に比定される山頂が狭くそこらへんが星二つにとどまる理由でしょう。

宇喜多氏が美作に入って以降は林野城が作東地域の主城になったようです。

林野は西の梶並川と南の吉野川を外堀に見立て、両川に挟まれた平地には蔵が立ち並ぶ城下町もつくられ、流通の中心でもあった模様。ということで林野城の別名は 倉敷城 ややこし!

慶長五年備前美作二国に小早川氏が入ると、稲葉通政が入城したといいます。

この稲葉通政という人、太閤から小早川氏に付けられた稲葉正成もしくは一族かと思ったのですが、調べても出てきません。詳細御存じの方教えてください。

また、小早川氏改易のあと津山城に入った森氏も林野城を支城として取り上げ、右近丞忠政の叔父で旗本だった惣兵衛可政を執政として返してもらいここに入れ、三代続いたといいます。

最高所Ⅰが主郭でしょう。西端には幅広の土塁cがあり、登るとここが天守台かとも思います。

しかし中央aがそれのようでもあり、東端の土塁bは石垣があったような痕跡もとどめます。

主郭から尾根筋にあたる北東には e・n の二つの曲輪を連ねております。nは東西に土塁がありますが、中央部に土塁が無いのは尾根筋を行き来することによる破壊で、もとは全周土塁であった可能性を考えます。

 

Ⅱ郭は西側の先端が高く三段になります。いまは東南端からⅠに登るとcの南に至るのですが往時はもっと迂回させてⅠ-mの南に付けていたようです。

Ⅰ西端の土塁cから北には削り残し竪土塁がⅢまで降りていて見どころです。

Ⅳは数段に分かれていて先端は枡形状になっておます。

 

当日クルマを停めた安養寺は城の下屋敷があったといわれ、小堀遠州作の庭があるらしいですが、当日は法事の最中らしく見ることができませんでした。

 

で、ここが、なぜ上半期No.1にまで評価したかということですが、先行図などではこれらⅠ~Ⅳまでの連携が全く感じられず、果たしてこれが江戸初期まで存続した城であることが疑問であったのですよ。

 

それが実際に訪れてみて「ああ、これは存続する価値のある城だな」 と感じたのです。

ただ、登山道(ハイキングコース)によって破壊されたのではないかと思われる形跡があり残念です。