竹貫城 | 根多帖別冊 by おしろまん

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おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

まだ暑いので山には登らず、昨季行った城を清書しております。

ボクは「水生城Ⅳ」(「ひょうごの城紀行」の記載)だと思っていた竹貫城。訓みは「たかぬき」です。

ここも但馬山名城址保存会の谷さんにご案内いただきました。

国府駅から近く、長楽寺さんの横に車を停めさせていただきました。

この裏山が「水生城Ⅰ」この日はこのあと宵田城に行く予定であったので通り抜けるだけとなってしまいました。また図面を摂りに来よう。

水生城から尾根道を西に700mほど進むと、竹貫城になります。北西には但馬空港があります。「ひょうごの城紀行」によるとここは平成元年に存在が確認されたのだとか。

また同書によると、虎口cを外枡形、gを内枡形として「水水生合戦」のあとに織豊勢力による利用を想定しています。

これはどうでしょうね?ぼくは虎口Cは外枡形という程明瞭な虎口とは思えません。

またgに関しては後世の破壊道かと思った程異様な通路にみえました。

また、他の虎口a・b・eも見ようによっては内枡形にみえなくもないですが、横入りの坂虎口と表現したほうが妥当であると感じます。

従ってgもa等と同形式ながら地形制約上このような形になったのではないかと。

それより尾根続きのⅥの通路のほうが気になりました。

北側は行き止まりで南の竪土塁がアタリの通路となっています。

東に下る場合は迷いませんが西から登ってくる場合北(下)を通るのではないか。

「凝っている」と思うのは気のせいでしょうか。

その様子を鳥瞰図で描いてみましたが、[kuro]に書くのは難しい…無謀だったか(笑)

織豊の城郭統制から見ても宵田城を生かしているのに此処を活用するメリットがあるのか疑問です。たとえ豊岡出石方面への陣城だったとしても、それなら水生城も改修が為される筈ですね。

天正水生合戦の折、山名家中の親毛利勢力や毛利氏の援軍が入った城であると考えます。