正月、帰省してひさしぶりに卒業した小学校まで行ってきた。
母校は当時は「野津原東部小学校」と呼ばれていたが、いまは当時四つあった町内の小学校が統合され、「野津原小学校」となっている。
何度も書いたが、この小学校は肥後熊本藩の「お茶屋」があった場所である。
小学校がほぼ「御茶屋」の範囲と思われ、東西南北ともに100mほど。北と東は10mほどの段丘となっている。その下は福城禅寺から水路が巡っている。さらに外に七瀬川。
絵図によると段丘面以外(東と南)は堀になっている。
で、数年前にここが発掘され、堀が実際に出てきたらしい。
江戸初期は幅15m以上、江戸期中期以降狭められたらしい。
つまりこの御茶屋は摂津・兵庫城と同じような濠の変遷を辿っていたということになる。
ぼくが通っていた当時はここは給食センターや体育用具倉庫があったのでまさかこんな堀があったとは考えもしなかった。
未調査の南辺を発掘すれば絵図のような堀と屈曲した虎口が出土するのではないか。
清正公案件だけに石垣が出土したりして。