「我思う。ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)
近代合理主義はデカルトのコギト(哲学の第一原理)から始まったといわれる。
しかし、アジア的発想からすれば、デカルトはただの無知蒙昧な愚者だそうです。
たとえば、初期仏教アビダンマ等の考え方によれば、「思う」は、出発点ではなく、それ以前に、六処(感官)→触(接触)→受(感触)→尋→伺(→想)という過程があり、「想」に至ってはじめて「思考」が登場する。
仏教の分析的思考は、1秒の何百万分の1秒の思考まで分析的に連鎖的にとらえていくわけですが、中国の白髪三千丈的なでたらめなレトリックではなく、妄語をいましめる厳格な前提のもと、このような「刹那」を精確にとらえ論じていたともいわれています。
この点、現代物理学が、宇宙誕生を極微細にとらえていくのに似ています。
また、主客未分の境においては、そもそも「我」が出てこない。
思考や言葉以前をとらまえていく。
だから、グローバル資本主義や科学技術万能主義の出発点になったコギトは、論ずるにも値しない謬見だといわれます。
わたしの上記説明は、正確かは保証できませんが。
資本主義や科学技術の行き詰まりは、その出発点であったコギトに原因する、と最近よくいわれるようになってきました。
話は換わって、
キリスト教神学(エックハルト等)で、造物主と被造物との関係は、一体(依存関係、縁起みたいなものか?)でそこに因果関係は観念しないそうです。
これは、わかったようでよくわからない話です。
こういうわかったようでわからない話は、江頭を読んでてもぶち当たります。
これが言いたかった。