平成23年新司法試験の採点実感等に関する意見(公法系科目第1問)
>1 全体的印象
>・答案構成としては,「自由ないし権利は憲法上保障されている,しかしそれも絶
対無制限のものではなく,公共の福祉による制限がある,そこで問題はその制約の
違憲審査基準だ。」式のステレオタイプ的なものが,依然として目に付く。このよ
うな観念的でパターン化した答案は,考えることを放棄しているに等しく,「有害」
である。
これは判例のパターンですよね!
流すべきところはパターンで流し、論ずべきところを厚く書くのは、わるくないと思います。
ただ、憲法上の権利自由として憲法論の俎上に載せられるかなど、審査基準以外の部分でも論ずべきことがあるのに、パターンに載せることによってそこが等閑視されてしまうという批判の趣旨であれば、理解できます。
そういう趣旨だとすれば、採点実感は舌足らずです。
>・なぜ法科大学院修了者の答案が基本的欠陥を多く抱えるものであるのか,その原因を究明する必要
があると思われる。その一つとして,そもそも,問題点に即応した法律の小論文を書くことの訓練が不足しているのではないであろうか。法科大学院としても,ドグマから脱却し,法律実務家として必須である「ペーパーを書くこと」にも力を注ぐ必要があるように思われる。
どういうドグマ? 受験指導、答案指導をしてはいけないというドグマ? 定期テストの答案であれ、レポートであれ、成績評価の対象として点数がつけられ、よかった悪かったのコメントがつけられます。それが学校という教育指導の場で悪いことだとは思われません。
一方で、答案指導禁止を逆手にとってか、そういう指導を懈怠する教員も見受けられます。
>3 憲法上の権利の制約
・X社の主張で「表現の自由」を記載せず,「営業の自由」あるいは「ユーザーの知る権利」のみを記載する答案が,相当数あった。原告にとってどちらを主張するのが望ましいかを検討する観点が欠けているように思われる。原告の主張としてわざわざ「弱い権利」を選択するセンスの悪さは,結局のところ訴訟の当事者意識が
欠けていることに結び付くように思われる。
・「原告側の主張」と「被告側の反論」において極論を論じ,「あなた自身の見解」
で真ん中を論じるという「パターン」に当てはめた答案構成によるものが多かった。
そのため,論述の大部分が,後に否定されることを前提とした,言わば「ためにす
る議論」の記載となっていた。このような答案は,全く求められていない。
という「実感」と矛盾が感じられます。
>4 想定される被告側の反論
>・「被告側の反論」の想定を求めると,判で押したように,独立の項目として「反論」を羅列する傾向が見られる。むしろ「あなた自身の見解」の中で,自らの議論
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を展開するに当たって,当然予想される被告側からの反論を想定してほしいのにもかかわらず,ばらばらな書き方をするために,かえって論理的な記述ができなくなっている(あるいは,非常に論旨が分かりづらくなっている)という傾向が顕著になっている。
独立の項目を立てたほうがよみやすいが、複数の反論を羅列する場合は、
「Aという反論が考えられる。これについては、(私見)。次に、Bという反論が考えられる。これについては、(私見)。」
と項目分けしない方がよいという意味でしょうか。
>7 事案の内容に即した個別的・具体的検討の必要性(パターン的当てはめの有害性)
>・観念的・抽象的・パターン的「当てはめ」という解答姿勢を取る受験者の心理は,一種守りの姿勢で,受験生心理としては分からなくはないものの,「事例に迫る」意気込みを感じないものであって,司法試験で事例を基に憲法問題を問うという出題の根本理念を失わせるものであり,極めて不適切であり,「有害」である。
答案例を示していただきたい。パターン的といっても、具体的にはよく分からないです。
安念潤司教授が国会で、望ましい答案例を提示すべきことを発言されていましたよね。
出題趣旨や採点実感の公表は、ないよりあった方がいいとしても、もどかしさを拭えず、受験生に十分な情報提供や教育的指針を提示するものになりえてはいません。
出題・出題趣旨・採点実感には、現旧考査委員にもいろいろな意見がありますが、受験生を困惑させ、ミスリーディングすることのないように十分な配慮を願いたいです。