まじめに | ぴぎのOptimistic Life

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アメリカ移住直前で妊娠。
異国の地で初めての出産・子育てに臨むと同時に応用行動分析士を目指しています。学生ママとしてキャリアと子育ての両立や応用行動分析学について綴っていきます。

3日坊主な性格とインターネットが不調すぎる結果、1年近くブログ放置。
もうやめるつもりだったのだけど、どうしても主張したいことがあったので独り言だと思って書いてみる。

まず、前置きとして言っておきたいのは、私は日本が大好きだし、日本人ほど信頼できる国民は世界でもいないと思っている。国民保険の問題とか年金とか問題は山積みだけど、日本ほどの医療制度も国民に平等で格差も少ない社会は他にはない。決して欧米に憧れがあるからでも劣等感があるからこのような事を言うわけでもない。

'日本人'がアメリカの高校で教えていると、'日本人の意見'を求められることがある。アメリカでは日本以上に生徒主体の授業というのが浸透していて、よく学生が授業の一環で研究発表のためにインタビューに来る。
これが仏教についてだったり徳川家や侍についてだったり、好きなこと言いたい放題で済む内容もあれば、従軍慰安婦やパールハーバー襲撃についてだったり、安易に発言できない内容だったりもする。
初めて慰安婦問題についてインタビューをお願いされたときは驚いた。
州規模で行われている"高校生が社会問題について自分たちで調べ発表する"という大会のためのインタビューだった。
こんなセンシティブな問題を学校で取り扱っていいんだろうか?!と衝撃だった。
でも、私は快くインタビューを受け入れた。日本の立場を理解し、伝えることが私の日本人としての義務だと思ったからだ。もちろんこういったインタビューを受ける上では毎回細心の注意を払っている。思い込みはないか、偏った考えになっていないか、事前に勉強し直す。英語で考えをまとめたあとは、アメリカ人に確認してもらう。私の限られた英語では、どうしても表現が直接的になり過ぎて、主張が強くなってしまうからだ。相手への配慮も忘れない。できるだけ客観的に意見を述べるし、相手を批判するような発言はしない。


日本でも海外でも、こういった問題の話題を避ける日本人は多い。
「個人でどうにかできる問題じゃないし」
「よく分からないし」
「もめたくないから」
「気まずくなるから」
中には
「相手の気分がそれでよくなるなら、謝る。私個人 が謝ったって何の影響もないから」
なんて言う人もいた。

悪い結果しか生まないと思うなら
「その話題は、お互いいい気持ちにならないからやめましょう」
と避ければいい。何も知らないでただ謝るということがどれだけ無責任な行動か自覚がなさすぎる。
そして、知らないから議論しないのとトラブルを防ぐために議論しないのは全く違うと思う。

そもそも日本人は議論することをケンカと勘違いしているんじゃないか。
少なくともアメリカではビール片手に様々な問題について議論することはよくある。
以前キャンプに行った夜、キャンプファイヤーを囲みながら暴露大会などで楽しんでいた中、話題がアメリカの銃社会になったことがあった。みんな活発に意見しあっていた。議論は平行線のまま意見がまとまることもなかったけど、それは良い時間だったと思う。特に激しい言い合いになっていた2人の片方が翌朝言った言葉「あいつが、あんなに真面目に考えているとは思ってなかったよ。あいつは良いやつだ。」だった。
意見の違いと人物の評価は違う。気まずくなると思っているのは日本人だけなんじゃないだろうか。

かくいう私も日本文化につかって育った人間。意見を否定されることは人格否定にも思える感覚は分かる。
不思議なことに、英語でNoと言われても全く気にしないのに、日本語で「違う」と言われると凹む。
日本人の友人とドイツ旅行に行ったとき、共通のドイツ人の友人と3人でレストランに行くことになった。私が「あそこのレストランは?」と言うと日本人の友達から「いやだ」と言われたが、「あ~今は気分じゃないのね」と思った程度で全く気にしなかった。けど、ドイツ人の友人と別れ日本人2人になったとき同じような状況でまた「いやだ」と言われた。前回はドイツ人もいたので英語での会話。今回は日本人だけなので日本語での会話。日本語で「いやだ」と言われた瞬間、私自身を否定された気分になって少し悲しくなった。すぐに英語と日本語の違いに気づき、おもしろくなったのだけど。

日本は「和」の文化で、わざわざ議論を巻き起こすような話題を避けたくなるのは分かる。
でも最近の「無関心」な日本人、「事なかれ主義」な日本人を見て危機感を覚えざるを得ない。

アメリカ人とビール片手に歴史認識問題になったことが何度かあったが、みな「面白い!」と私の意見に耳を傾けてくれた。「認識の違いをシェアすることは大切。もっと議論しよう」と言ってくれた。熱く議論する横でたいていの日本人は私に引いているのが分かって、落ち込んで寝られない日もあった。そんなに熱くならなくてもと失笑された過去もある。でも、やっぱり少なくとも海外に出る日本人はもっと世界の問題、日本の問題、近代史について真剣に考える必要があるんじゃないだろうかと思う。無言は意見がないのと一緒。

私は政治家でもないし、専門家でもない。だから歴史の真実、今世界で起きていることの裏に隠れた真実を知ることなどできない。だからこそ、あふれかえる情報の中から最も信憑性のある真実はどれだろう、どの意見が最も客観的な情報をもとにしているだろう、と情報を選択していく必要がある。そして常に「自分は偽りの真実を信じているかもしれない」という危機感を持つようにしている。
だから、違う立場からの意見は貴重で機会があればいつでも議論したい。議論を避け、情報を自ら閉ざしてしまうのは勿体ない。
日本って素晴らしい国。その素晴らしい国と文化を守るために、日本のために行動しようよ、と私は今日本人に言いたい。「私には関係ない」とか「個人でどうにかできる問題じゃない」とか他人事な日本人が多すぎる。大きな行動ができなくても、1人1人が真剣に考えること意見を持つことが日本のためになる、愛国心=戦争じゃない、もっと愛国心を持って~と言いたい。




余談
日本人の英語教育について度々色々なところで話題になるが、「確かに」と思う記事があった。
「日本人が英語が話せないのは語学力の問題じゃなくて、話すことがないんだ」という主張だった。
意見がないから、英語を勉強しても英語で何を話したらいいか分からない、といった内容。

慰安婦問題など学校で取り扱うには危険かもしれないが、どんどん学校で子供たちに議論させてはどうだろうか。
韓国の主張が間違いです!日本の主張が間違いです!など、何が正しいかを決める必要はない。いや、学校で決めてはいけない。ただ、情報を集め、考え、自分の意見を持つ、その訓練が大切。そして、世界で起きていることにもっと関心を持たせることが重要だと思う。最後何を信じるかは個人に委ねればいいのではないだろうか。

ゆとり教育が失敗に終わったが、授業の進め方を変えず指導内容だけを減らしたから失敗に終わったのではないかとふと思った。
指導内容が減った分、先生が一方的に話すのではない、もっと有意義な学びの時間が作れたんじゃないだろうか。
英語の授業だけじゃなくて、社会科の授業が変われば日本人の英語も変わるんじゃないかと思った。