思春期の頃、学校の校舎に“いつも笑顔でありがとうの挨拶を”と書かれた垂れ幕に“強制”を感じていたことを思い出した。

ボクたちが環境破壊しながらも平気な顔で図々しく生活している地球上には沢山の人が『あーだ!こーだ!』と文句を言っては、時には笑い、時には涙し、時には無表情で暮らしている。それは“人”が“人”として生きる限りは“発生すること”だとボクは思う。

ボクの周りには“子供が産まれたばかりなのに3度目の離婚へ全速する男”や“不利だとわかった途端に手のひらを返した態度に豹変する女”や“某ユニバーサルなスダジオのジャポン敷地内で係員の目を盗みセクシーフレンドの女壺をアトラクションした男”や“某USジャポンでハメてみたいと叫ぶ男の我儘に神龍してしまう女”や“縛られている自分の姿を鏡で見て興奮する男”や“パンティーの表と裏を逆に履いていることに気付いていない女”や“大勢の人々にアナルを見せて優越感が滴る男”や“セックス最中に頼んでもいないのにチョイと脱糞する女”や“早漏を超越した速漏な男”や“非常識なレベルで鼻毛が出ている女”や“宝毛を伸ばす男”や“乳首の色がセンチメンタルな女”がいる。ソレもコレもチツもアレもマラも最終的には“しゃーなし”という言葉で片付けられる。“しゃーなし”は慈悲深き言葉なのだ。



職場の同僚が『ホームレス中学生』という本を貸してくれた。声を出して笑った。くしゃくしゃに顔を歪めて泣いた。心が暖かくなった。本を読めて良かった。



『“ありがとう”と言える人は“ありがとう”と言われる人だ。』と誰かが言っていた。今は“ありがとう”を“強制”されていないから、その“心”が何となくわかる。今だにわからないのは“亀頭をいじくると土踏まずが熱くなる”という噂の真相だ。



最後に、本を貸してくれた同僚に是非とも感謝の言葉を受け取っていただきたい。



ありがたまきん♪



今のも“しゃーなし”で片付けてくれたら、ありがたまきんです。