この頃、父と母の喧嘩も絶えず、僕も完全に反抗期に突入し、
家の中もあまりいい空気ではなかった。



ただ、どう考えても馴染めなそうだった学校には、いつの間にか慣れていった。


最初野蛮に感じられた雰囲気は、「強く活気のある奴らだ」
と感じるようになり、

同時に、
優しい雰囲気の、前の学校に戻りたい、と思っていたのが、
「なんか女々しくて弱弱しい奴らだったな~」と、感じるようになったのだ。



「住めばみやこ」ってことか。



こうも自分の物の見え方が変わった事で、


「今」の自分の物の見え方、考え方が、
「僕の結論」なわけではないかもしれない、


と、考えるようになった。



これは時に、迅速な判断、決断、の妨げになる。






今でも重要な選択の時は、かなりの優柔不断、である。




今日何食べよう?くらいの事なら即決できる。


もし、「あー失敗した、やっぱりあれにすればよかった」
と、思っても、その時だけで済むからだ。
いいかげんになれる。


いつまでも、
「あー○月○日のご飯、あっちにすればよかったー・・」

などと悔やんだりはしないからだ。



これから何年か付き合って行くであろう、ギターを選ぶ時、
ずっと残るであろう作品のレコーディングの時、


非常に悩む。


そして、自分の記録として、残っていくであろうこの文章を書く時も、
結構悩みながら書いている。



当然、他人が見た時、聞いた時、どう思うか?
という事も考えるが、


自分が後からどう思うか?
という心配の方が、絶大だ。

つまり、「自分」に自信は持っている。
「自分という人間の感覚」には。


だから、
自分の意見をはっきり言えない子、では無かった。
強い意志を持っていたし、頑固だった。



ただ、「今の自分」が「結論」か?というところに、とても悩む。



「今」はこれでよい、と思っている。


だが、明日、何ヶ月後、何年後、聞きなおしてみて、
「よくなかった!!」と思う事が無いとは言い切れない。

実際、よくある。

自分の聞こえ方は日々変わっているとすら思う。



その時のベストを尽くし、判断したんだから、
それでいいじゃないか。


とは、あまり思えない。


その「いいじゃないか」は、
「今日のご飯おいしくなかったけど、まぁ明日美味いもん食えばいっか」
というのと、同じだと思っている。


何度も食す食事のように、何本もギターが買える程の金持ちだったら、
いちいち悩まないのかもしれない。
いいかげんになれるのかも。


逆に「今日の晩餐が、人生最後の晩餐です」と、もし言われたら、
相当悩むだろう。
いいかげんには選べないのかも。



レコーディングも、何曲もやっていくうちに、
最初ほど悩まなくはなった。
これも、数が増えた事で、自分の音に対する責任が分散され、
いいかげんになっているから、かもしれない。


あと、悩んで悩んで弾いた物に、後々やっぱり後悔が出てきたり、
かなりやっつけで適当に弾いた物が、全然いい感じだったり、
という事もあるので、
考えても無駄、と、悩まなくなったのもある。




この頃の小学生の自分に、今の自分のギターなんかを聞かせたら、
どう聞こえるんだろう。




その後僕は中学に入ってから、
非常に危険な考えをするようになっていった。