改めまして、新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。
2011年は、昨年できなかったことをいろいろしてみたいと思いますが、
忙しい年にもなりそうです。
体調管理をしながら、前向きでかつモチベーションを保ちながら、
積極姿勢で臨みたいです。
後は体重のコントロールでしょうか(苦笑)。
さて、私の年賀状には、毎年御言葉が記載されています。
多分ですが、私がクリスチャンになったのが2001年の9月ですから、
2002年から毎年そうだと思います。
(入院していたときは出していないかも・・・。)
今年は、マイナーな箇所を選びました。
「ホセア書6章3節」です。
我々は主を知ろう。
主を知ることを追い求めよう。
主は曙の光のように必ず現れ
降り注ぐ雨のように
大地を潤す春雨のように
我々を訪れてくださる。」
(新共同訳聖書より)
「ホセア書ってどこだっけ?」と言われそうですが・・・。
(ちなみに太預言書と呼ばれる、
イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書の次に来る、
小預言書のひとつです。
時期的にはイザヤと同時期か若干昔の人で、エリシャよりは後です。)
いろんな思いがこもっています。
一見、祝福の御言葉に見えますが、
実際は悔い改めを呼びかけている箇所なんです。
前後を少しだけ見てみましょう。
小見出しには、「偽りの悔い改め」というタイトルが付いています。
6:1 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。
主は我々を引き裂かれたが、いやし
我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
6:2 二日の後、主は我々を生かし
三日目に、立ち上がらせてくださる。
我々は御前に生きる。
6:3 我々は主を知ろう。
主を知ることを追い求めよう。
主は曙の光のように必ず現れ
降り注ぐ雨のように
大地を潤す春雨のように
我々を訪れてくださる。」
6:4 エフライムよ
わたしはお前をどうしたらよいのか。
ユダよ、お前をどうしたらよいのか。
お前たちの愛は朝の霧
すぐに消えうせる露のようだ。
6:5 それゆえ、わたしは彼らを
預言者たちによって切り倒し
わたしの口の言葉をもって滅ぼす。
わたしの行う裁きは光のように現れる。
6:6 わたしが喜ぶのは
愛であっていけにえではなく
神を知ることであって
焼き尽くす献げ物ではない。
(新共同訳聖書ホセア書より)
ここまで読むと少しお分かりいただけますでしょうか?
「」で囲まれている箇所が、「偽りの悔い改めの言葉」になるわけです。
今回この御言葉を選んだ理由の一つは、
悔い改めの呼びかけと、主(聖書の神様)からの祝福を信じよう!ということと同時に、
この悔い改めの言葉、祈りが、一時的な物にならないようにしよう、ということです。
朝の霧のように、すぐに晴れてしまい、
祈ったのか、悔い改めたのかわからなくなってしまうような毎日ではなく、
悔いたら改める、そういう習慣を身につけたいなと思いました。
今年の私の課題というか目標ですね。
また、他の理由としては、「わたし=主」が喜ぶのは、
「愛」であって、「神を知ること」であるということを、
間接的にブログを見た方に知っていただけたらと思いました。
(ただ、この箇所全部を年賀状に盛り込むのはどうかと思ったので、
3節だけにしました。)
聖書を通して、このことは一貫しています。
神様に対する愛が望まれているということになります。
日本では、「神様」というと、対象が曖昧で、
時に神社の中の像であったり、時にお地蔵さんだったり、
また時には何が何だかわからないものだったり・・・。
しかし、聖書が語る神様は人格をもった方です。
人が神様を愛すること、(まずは知ることですかね)を求めておられます。
ヨハネによる福音書15章16節では、以下のようにあります。
(わたし=イエス・キリスト、です。)
あなたがたがわたしを選んだのではない。
わたしがあなたがたを選んだ。
あなたがたが出かけて行って実を結び、
その実が残るようにと、
また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、
わたしがあなたがたを任命したのである。
(新共同訳聖書より)
「神様を知る、愛する」というのは、実は人間から出てくる感情ではなく、
神様から一方的に与えられる特権というか、恵みなわけですね。
まずは聖書を手にとって読んでみてください。
そして、神様からのcallingに応答してみてください。
そうすれば、人格的な神様との交流が始まります。
目には見えないけれど、確実に始まります!
私もそういった体験を今年はたくさんしたいと思います。
それにしても、このホセアという人の人生を見てみると(1章とか)、
すごいですね・・・。
最近買った漫画聖書でも再確認したのですが、
「淫行の女」を妻として迎え、イスラエルに向かって預言します。
神様の思いはこのように辛いものなのだ!と。
偶像に「浮気」したイスラエルの民たちに、
神様の心の痛みを、そして裁きの預言をしています。
本物の神様を知らずに他のものを信仰すること、
また無関心で神様を知ろうとしないこと、
それがどれほど神様を悲しませてしまうことなのか、
それがこの本文から伝わればいいなと思いました。
さて、久しぶりに聖書に関するブログを書きました。
(いつも適当な記事ですいません。(苦笑))
「読んでますよ~」という声を聞くたびに、
あ、書こうかな?と思うのですが・・・。
今年は何個、ブログ記事をかけるかな?
昨年は80個だったので、100個を目指そうかな。
では、皆様、今年(は?/も?)、良い年でありますように。
本年もよろしくお願い申し上げます。
2011年は、昨年できなかったことをいろいろしてみたいと思いますが、
忙しい年にもなりそうです。
体調管理をしながら、前向きでかつモチベーションを保ちながら、
積極姿勢で臨みたいです。
後は体重のコントロールでしょうか(苦笑)。
さて、私の年賀状には、毎年御言葉が記載されています。
多分ですが、私がクリスチャンになったのが2001年の9月ですから、
2002年から毎年そうだと思います。
(入院していたときは出していないかも・・・。)
今年は、マイナーな箇所を選びました。
「ホセア書6章3節」です。
我々は主を知ろう。
主を知ることを追い求めよう。
主は曙の光のように必ず現れ
降り注ぐ雨のように
大地を潤す春雨のように
我々を訪れてくださる。」
(新共同訳聖書より)
「ホセア書ってどこだっけ?」と言われそうですが・・・。
(ちなみに太預言書と呼ばれる、
イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書の次に来る、
小預言書のひとつです。
時期的にはイザヤと同時期か若干昔の人で、エリシャよりは後です。)
いろんな思いがこもっています。
一見、祝福の御言葉に見えますが、
実際は悔い改めを呼びかけている箇所なんです。
前後を少しだけ見てみましょう。
小見出しには、「偽りの悔い改め」というタイトルが付いています。
6:1 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。
主は我々を引き裂かれたが、いやし
我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
6:2 二日の後、主は我々を生かし
三日目に、立ち上がらせてくださる。
我々は御前に生きる。
6:3 我々は主を知ろう。
主を知ることを追い求めよう。
主は曙の光のように必ず現れ
降り注ぐ雨のように
大地を潤す春雨のように
我々を訪れてくださる。」
6:4 エフライムよ
わたしはお前をどうしたらよいのか。
ユダよ、お前をどうしたらよいのか。
お前たちの愛は朝の霧
すぐに消えうせる露のようだ。
6:5 それゆえ、わたしは彼らを
預言者たちによって切り倒し
わたしの口の言葉をもって滅ぼす。
わたしの行う裁きは光のように現れる。
6:6 わたしが喜ぶのは
愛であっていけにえではなく
神を知ることであって
焼き尽くす献げ物ではない。
(新共同訳聖書ホセア書より)
ここまで読むと少しお分かりいただけますでしょうか?
「」で囲まれている箇所が、「偽りの悔い改めの言葉」になるわけです。
今回この御言葉を選んだ理由の一つは、
悔い改めの呼びかけと、主(聖書の神様)からの祝福を信じよう!ということと同時に、
この悔い改めの言葉、祈りが、一時的な物にならないようにしよう、ということです。
朝の霧のように、すぐに晴れてしまい、
祈ったのか、悔い改めたのかわからなくなってしまうような毎日ではなく、
悔いたら改める、そういう習慣を身につけたいなと思いました。
今年の私の課題というか目標ですね。
また、他の理由としては、「わたし=主」が喜ぶのは、
「愛」であって、「神を知ること」であるということを、
間接的にブログを見た方に知っていただけたらと思いました。
(ただ、この箇所全部を年賀状に盛り込むのはどうかと思ったので、
3節だけにしました。)
聖書を通して、このことは一貫しています。
神様に対する愛が望まれているということになります。
日本では、「神様」というと、対象が曖昧で、
時に神社の中の像であったり、時にお地蔵さんだったり、
また時には何が何だかわからないものだったり・・・。
しかし、聖書が語る神様は人格をもった方です。
人が神様を愛すること、(まずは知ることですかね)を求めておられます。
ヨハネによる福音書15章16節では、以下のようにあります。
(わたし=イエス・キリスト、です。)
あなたがたがわたしを選んだのではない。
わたしがあなたがたを選んだ。
あなたがたが出かけて行って実を結び、
その実が残るようにと、
また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、
わたしがあなたがたを任命したのである。
(新共同訳聖書より)
「神様を知る、愛する」というのは、実は人間から出てくる感情ではなく、
神様から一方的に与えられる特権というか、恵みなわけですね。
まずは聖書を手にとって読んでみてください。
そして、神様からのcallingに応答してみてください。
そうすれば、人格的な神様との交流が始まります。
目には見えないけれど、確実に始まります!
私もそういった体験を今年はたくさんしたいと思います。
それにしても、このホセアという人の人生を見てみると(1章とか)、
すごいですね・・・。
最近買った漫画聖書でも再確認したのですが、
「淫行の女」を妻として迎え、イスラエルに向かって預言します。
神様の思いはこのように辛いものなのだ!と。
偶像に「浮気」したイスラエルの民たちに、
神様の心の痛みを、そして裁きの預言をしています。
本物の神様を知らずに他のものを信仰すること、
また無関心で神様を知ろうとしないこと、
それがどれほど神様を悲しませてしまうことなのか、
それがこの本文から伝わればいいなと思いました。
さて、久しぶりに聖書に関するブログを書きました。
(いつも適当な記事ですいません。(苦笑))
「読んでますよ~」という声を聞くたびに、
あ、書こうかな?と思うのですが・・・。
今年は何個、ブログ記事をかけるかな?
昨年は80個だったので、100個を目指そうかな。
では、皆様、今年(は?/も?)、良い年でありますように。
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