【七夕マリア】

 

 

長崎は土地柄で教会が多い。

自分は市内の生まれだが、3歳の時に隣の諫早に引っ越した。

諫早には長崎ほど教会はないように思う、と言うか自分は一つしか知らない。諫早駅から川向こうを眺めるとみどりに覆われた急な高台があり、そこにひっそり十字架を見せる白い教会が建っている。

 

3歳で越してきた時、その教会に隣接するカトリックの幼稚園に入れられた。両親は山口県出身で、キリスト教とは全く関係ない浄土真宗であり、後に何度も出席するお葬式もすべて南無阿弥陀仏であったが、幼稚園のその一時期だけキリスト教的雰囲気の中で自分は育った。

 

幼稚園の門の上には、マリア像があった。

まるで走ってくる子供を迎え入れるように、両手を下に広げた白い石膏のその像は、ぱっと見、目がはっきり確認できないが、まなざしをこちらに向け、優しく微笑んでいた。

だが雨の日などふと見上げると、微笑みながら大粒の涙を流しているようで、少しドキッとしたことがあった。

 

園内に入ると、神に仕えるシスター達が数人いた。

その中でも一際やさしい笑顔を持ったおばあさんが園長先生だった。

普段の園内は、他の幼稚園とさして変わらなかったと思う。

ただ違うのは、年に数回、隣の教会でお話があることだった。

そこでされた話の内容はほとんど憶えていないが、ある日の話の後、

「これから皆さんにマリア様がイエスキリストをお産みになった馬小屋を見せてあげます」と言われ、それをみんなで見た事はよく憶えている。

子供達は祭壇に向かって、それぞれの席から真ん中の通路に向かって、ちょうど葉っぱの模様が真ん中の茎に向かっていくようにゆっくり合流していきながら、自分の順番を待った。その日は曇っていて、子供達は教会に入る時から浮かない気分だったが、でもだんだんわずかな期待感が厳かな気分と相交わりながら、ひとりひとり神妙な顔で列を進んでいった。

いよいよ自分の番がきた。

歩きながら、ややのぞき込むようにしたが、ジロジロ見ることができる雰囲気ではなく、祭壇に飾られたその小さな馬小屋の様子をわずか数秒見ることができた。

あったのは、ただの瀬戸物の人形だった。

なんだか拍子抜けだった。

シスター達の口吻から、何か飛び出る映像でもあるような気がしていたので、列を折り返すと全く興味は失せ、何の感想も持たず列の一人として教会を出た。

でもその後、なぜか度々思い出す。

あそこに飾ってあったマリアは、わらの布団に上半身を起こした姿で赤ん坊と抱く普通のお母さんだった。その笑顔も門の上のマリアとは少し違っているような気がした。

 

十字架のキリストと馬小屋のマリア。

なぜキリストは神様なのに十字架に杭でうたれているだろう。

ほんの少し首をひねるが、それ以上知ろうとは思わない。

杭で手と足をうたれるなんて痛そうだ。

知りすぎると、その痛みが少しだけこっちに来そうな気がした。

だがマリアは違う、馬小屋にいても美しく輝いている。

マリアは暖かく、キリストは寒い。

希望と絶望が同じ場所に!?

ひょっとすると幼児の自分は、無意識にそんな風に感じていたのではないだろうか。

今となってはわからない、でもあの頃、自分にとって教会は、ただシスター達に連れて行かれた場所ではあったが、普段の生活の中で唯一、別世界に連れて行かれた場所でもあった。

 

ある朝、雨が降っていた。

子供達の黄色い合羽が三々五々門をくぐっていく。

外履きを脱ぐ場所に行くと、天井から笹竹が自分達に被さるように垂れ下がっていて、たくさんの短冊が目の前にぶら下がっている、何だと思うとその日は七夕であった。

それぞれの願いが書いてあるその短冊には自分の短冊もあり、そう言えば昨日書かされたのはここに吊される為だったのかと思った。

話も聞かされている。

織姫と彦星が会う一年に一回の七夕の日、しかし雨の日は無情に二人の逢瀬を阻み、その降っている雨は織姫の涙でもあるという。

その時、ポツン、ポツン、笹をはじいて自分の顔に雨のしぶきがかかった。ふと門の上のマリア像を思い出した。

これはマリア様の涙かもしれない。

十字架に架けられたキリストへの悲しみの涙、すべての人に微笑みを与えながらも、雨の日だけ泣くことができる彼女の涙かもしれない。

この幼稚園にいて天上の女の人と言えばマリアであり、初めて聞く織姫という人は頭によぎりにくかった。

園内に上がると優しく笑みを携えたシスターが待っていて、脱いだ合羽をワイヤーに干すのを手伝ってくれる。その間に上履きに履き替え、自分のクラスに向かった。屋根ギリギリから少し斜めに吹き込む雨に片っ方の手を伸ばし、手のひらで雨を受けながら歩いた。

 

幼稚園を卒園してキリスト教とは全く縁遠くなったが、人間に地層があるとすれば、あの初期の一時期だけ、神聖な教会の白い地層が一筋、自分の中にある気がする。