フェイク 第1277号 (発行=12.03.01)



本門寺の横田智研が激怒し隠居
日顕の息子・信彰の凶暴な体質を糾弾 ①
宗内一の嫌われ者、渦巻く不信・不満




 香川・讃岐本門寺の横田智研が住職を辞めて隠居した。後任は千葉布教区支院長で弾正寺の梶原慈文が入る事に二月末、内定した。宗門の確かな情報によると、横田が隠居を決めたのは、阿部信彰(写真)が本門寺に乗り込み、布教部長の権威を振りかざして成果主義の無謀な折伏を強要したのが原因ということである。

 日頃より信彰の横暴な言動に耐えていた横田も、遂に堪忍袋の緒が切れて、隠居願いを叩きつけたと言われている。

 讃岐本門寺といえば富士宮の妙蓮寺、宮崎の日向定善寺と並ぶ三本山の一つ。
大石寺が「総本山」と称していられるのも、これらの本山があるためだ。

 以前は時の法主が本門寺住職を兼務しており、六十六世日達法主も、ニセ法主の日顕も本門寺住職を務めていたが、その役務を日顕は途中で投げ出した。

 横田は、かつて中国方面の宗務大支院長を務めていたが、平成十二年十一月に前住職の死去に伴って、その後任になっていた。この住職を隠居に追い込むほど信彰は増長しているのだ。

 この横田の辞任を契機に、宗内にくすぶる信彰への強い不信、不満が表面化して大きく波紋を広げるのは必至と見られている。

 横田隠居の発端となった信彰は、人徳とか人望とは無縁で能力も実績も教学力も無い。父・日顕譲りの面差しと短気で凶暴な性格は宗内でも嫌われ、恐れられている暴力坊主である。

 信彰は常在寺(東京・豊島区)の前住職・細井珪道の死後、日顕の後押しで平成二十二年十月に赴任したが、その直後、法華講幹部との確執が勃発した。

 愛想を尽かした講頭以下、常在寺の講中幹部が集団で辞任するという異常事態に発展したことは記憶に新しい。

 この常在寺は約四百年の歴史があり、歴代住職三十七人のうち十四人が法主になった名刹。日顕が信彰を常在寺に送りこんだのも、能化、そして次の法主を狙っての情実人事であった。

 だが、皮肉なことに着任早々、「坊主失格」を露呈する結果になったのだ。

 この信彰の暴力、恫喝によって、これまで多くの坊主や檀徒が苦しみ、犠牲になってきた。それでも日顕の息子というだけで、庶務部長から布教部長の出世コースを歩んではいるものの、何一つ修行を積んでいないため、今も悪逆非道を繰り返しているのである。


 暴力行為の代表例の一つが平成二十年十一月の傷害事件である。


 信彰が里内信徳(北海道の得成寺住職)を大石寺に呼びつけて吊し上げ、激高して蹴り上げた机が里内に当たって「左膝打撲、内出血、左膝蓋骨骨挫傷で約一カ月の安静、加療を要する」との診断が下された。

 この被害者の里内が「住職罷免、擯斥」という重科を負わされ、片や、加害者の信彰は「厳重注意、十日間の職務停止」という軽い処分だったのには驚く。

 このような不公平な対応が、宗内に暴力体質を蔓延させている。次号からは信彰の暴力行為を詳しく紹介し断罪する。(つづく)







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