フェイク 第1308号 (発行=12.07.11)



「日顕本仏・日蓮迹仏」の大邪説
検証 日蓮正宗は何が間違っていたのか? ③
「法主本仏論」の陰に日顕・信彰の野望




 日蓮正宗に「日顕本仏論」「法主絶対主義」が横行するようになった背景には、日顕と、その意を受けた愚かな息子・信彰による陰の画策があった。日顕が能化文書に「法主は戒壇の大御本尊と不二の尊体」と書かせたことは前号で詳述した。

 また、法華講の内田和子、日顕の娘婿で日如の弟・早瀬義純(故人)らに「現代における大聖人様」等と言わせ、福田毅道には「日顕本仏・日蓮迹仏」の大邪説を唱えさせたのも日顕と信彰の画策である。

 二人に媚び諂う福田は平成三年八月、行学講習会で「百六箇抄に『立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり』とある」と述べて得意満面に妄論を展開した。

「これは森羅万象について本迹を立て分けるべきであるということであり、『立つ浪』というのは次から次へと起こっては消えていくものであるから、今、起こっている浪が『本』で、消えた浪は『迹』と言える。

 風についても、今、吹いている風が『本』で、過ぎ去った風は『迹』と言える。

 これからすると、大聖人から御歴代は、もう過去だから『迹』で、御当代日顕上人が『本』と言える」という趣旨の迷講義である。

 この「日顕が本で、御本仏が迹」という「顕本仏迹論」ともいうべき前代未聞の大邪説は、宗門に横行する「現法主絶対主義」の露呈であった。

 このように法主を「御本尊と一体不二」であるとか、「信仰の根本」と捉えるのは、それだけで法主を御本仏日蓮大聖人と並ぶ立場に置く「法主本仏論」ともいうべき大邪義である。

 画策は、それだけに止まらない。法主を、宗祖大聖人の上に置かんとする恐るべき邪義まで蔓延させようと謀った。

 笑止な事に、福田自身は日顕を「本仏」とは毛頭、思っていない。信彰の策謀に加担し、謗法の罪を重ねたに過ぎない。

 また「大日蓮」(平成三年六月号)に「創価学会における御宗門批判のキャンペーンについて」との一文が掲載された。これは内田和子という信徒が二十ページにわたり書いたものだが、その中で日顕を「現代における大聖人様」等と計十四回も繰り返し述べている。

 誤字脱字も多く、余りにも浅ましい盲信的駄文である。この低劣な代物が「大日蓮」に掲載された経緯を、ある僧侶の証言から辿ってみる。

 内田和子は青梅・慈本寺(当時の住職は石橋頂道)の講員で当初、この作文を石橋の所に持ち込んだが、あまりに稚拙なため、相手にされなかった。次なる府中・大修寺では、当時の住職・信彰が利用価値を見つけて「大日蓮」編集部に持ち込んで掲載させた。

 それは日頃から信彰が東京・府中の学会員に対して「猊下が何を言われても信者は『ハハー』と聞くのが信心で、猊下が何をされても、それは全て仏の慈悲と拝さねばなりません」「猊下ではなく、大聖人の信徒というなら、もう日蓮正宗の信徒ではありません」と吹き込んでいた邪義と合致したからだ。

 宗内に「日顕本仏論」を定着させ、信彰を日如の後釜に据えようと目論む日顕。愚かな息子との二人三脚の欲望に際限はない。(続く)


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