フェイク 第1348号 (発行=12.12.11)



急報 本行寺の高野日海が急死
柳沢喜惣次に続く日顕の地獄への案内人
信徒の浄財を湯水のように浪費した破戒坊主




 日蓮正宗の本行寺住職・高野日海が十日正午前、入院先の都内の病院で死去した。享年八十四歳。日海は以前から肺気腫を患っていて、先日は日顕、日如らも見舞いに行き、前日までは話もできたが、病状が急変して帰らぬ人となった。


通夜は十三日午後七時から、告別式は十四日午前十時からと決まった。



日海は僧正(吉田日勇、藤本日潤)に次ぐ三人の権僧正の筆頭格で、現在は寺族同心会の会長、監正会会長を兼務していた。



日海の父親は、日顕の実父と言われている高野日深で、日海はその長男として昭和三年十二月一日に生まれた。昭和二十四年に教師検定試験に合格、同三十一年に大講師になり、同三十八年四月以来、本行寺住職に納まり、東京第一布教区宗務支院長、参議会議長、全国布教師などを歴任したが、功績と言えるようなものは皆無に等しい。



平成二年に能化になり、「日海」を名乗るようになった時、宗内から「まさか、あんな遊び人が……」と驚きの声が上がった程だった。強欲で遊蕩三昧に耽る日海は、生臭坊主として評判が悪く「僧侶失格」の烙印を押されていた。


 日海の振舞いで忘れられないのは平成七年六月六日、池上本門寺の貫首・田中日淳氏ら身延派の高僧が揃って大石寺を訪問した時に案内役を務めたことである。



日海は身延派の一行を、総門から、広布坊を経て三門、大客殿、御影堂、正本堂、五重塔に至るまで案内して見学させた後、蓮葉庵に招いて手厚い接待をしていたのである。



 これは日興上人の「五人と日興と堅く以て義絶し畢(おわ)んぬ」「日興と五人と堅く以て不和なり」(「富士一跡門徒存知の事」との厳しい戒めに違背する。



日海の振舞いが大謗法であるのは明々白々であり、大石寺が日蓮大聖人、開山日興上人とは無縁の謗法の山と化してしまったことを物語る出来事であった。



日海の夜遊びは特に有名で「私は近所の安い赤提灯の店なんかでは飲まない。酒が好きだから飲みに行くが、信徒のいない橋向こうに行っているんだ」と嘯き、浅草から赤坂、六本木、銀座、渋谷と広範囲を飲み歩いた。「吉田」の偽名で「カツラをかぶってサングラスをして行けば分かりゃしない」と日海の得意気を笑うように、身元はすぐに割れ、夜の歓楽街を徘徊する日海を目撃した人は多かった。知らぬは本人ばかりである。



日海は「千円、二千円なんて供養のうちに入らない。一人一万円。最低でも五千円だ」と供養を強要しては、夜遊びに費やした。全く以て不埒千万である。



また、向島の料亭での芸者との関係は広く知られており、毎晩のように、お目当ての芸者を侍らせて一本数万円の高級洋酒を専用のグラスで飲み、現を抜かしていた。信者の御供養を湯水の如く浪費したのだ。



柳沢喜惣次に続き、破戒坊主・日海の死に依って、地獄への案内人がまた増えた。日顕の心境は穏やかでは無かろう。




$紅蓮の破邪顕正ブログ-fake_1348