前回、予告した通り自分の生い立ちというか、自分が学生時代どうであったかについて、少し述べてみたいと思います。

たまに、「弁理士になれるぐらいの人に勉強のできない人の気持ちなどわかりませんよ」などと言われることがあります。
親が弁理士になれるぐらいであれば、その子供の進路だって悩むことも無いでしょうと、潜在的に思っておられる方も少なくないでしょう。しかも、その「頭がよい」と言うのは、決して敬意からでなく、むしろ頭がよいだけで、人間的な経験値の低いと行った趣旨の軽蔑の意図で、そのように捉えられているかも知れません。

しかしながら、そう言った方からしたら残念ながら、確かに中学入学時までは、一応、多摩地区の某国立の中学に合格しているので、多少はあてはまるのでしょうが、その後は慢性的に劣等生でした。

私が合格し進学した上述の中学校は、3割程度が高校に内部進学できるところでしたが、学力的にはともかく、内申点からしてとても及びませんでした。しかも、その内申点は、東京都の基準に換算すると、最低評価となる科目すら複数あるぐらい酷いものであったため、都内の学校は、ほぼ門前払いが決定していたようなもので、結局、隣接県の内申を考慮しない高校に何とか入ったと言う経緯がありました。

高校でも、最初の中間試験は最下位から数えて8番目で、それを維持していたら進級すら危ない状態でした。
さすがに、これには危機感を抱き、中学のときよりは真面目に勉強をするようになりましたが、それでも(一応、県下では有数の進学校だったとはいえ)学年の真ん中の順位にすら1度も辿り着くことができませんでした。

この高校では寮生活をしていたのですが、学業の方が、そう言った状態でしたから、馬鹿にされ、特に大学受験を控えた高3の2学期には、自室が溜まり場にされ、一番勉強をしなければ時期であったにも関わらず、それどころではありませんでした。

一方で、中学受験のときのそこそこ成績がよかったことが忘れらない身内からは、医学部医学部(しかも国立の)と、それこそ偏差値が倍近くも足りないところを目指させられ、意欲低下に拍車がかかり、現役のときのセンター試験は(その年は少し難易度が高かったのもありますが)6割にすら大きく及ばず、医学部どころか国公立大学で引っ掛かりそうなところすら皆無と言った状態でした。

もっとも、実家に帰って来れた浪人時代には頑張ったので、なんとか、この大学であれば、一流とは言わんまでも、まあ学歴で問題になることはないだろうと言ったところ(多摩地区の理系2学部からなる大学の工学部)に行くことができましたが、当時この大学は社会的な評価の割に偏差値的には受かりやすかったのと、2次の後期日程で数学の配点が少ないことに救われた感もありました。

そして、大学に入ってからも、1年次の一般教養時代はよかったのですが、2年次以降、専門科目が増えてくると、ついて行けず、比較的講義への出席率は高かったにも関わらず、大部分が「B」か「C」でした。

大学4年の際には、自分としては乗り気でなかったものの、当然修士ぐらいは行くだろうと言う身内の予定調和による圧力と、就職活動に対する研究室の圧力により就職活動ができず、かと言って毎日のように日付が変わるまで実験をさせられ、大学院試験の勉強もできず、落ちてしまいます。
結局、院試に落ちた8月末から就職活動を始めましたが、そんな頃には大部分のところが既に募集を終了しており、不本意な就職となりました。そのような環境で骨を埋めるのが、たまったものではなかったので、弁理士試験を目指すに至った経緯があります。

とまあ、中高大と見事に屈辱的な目に遭って来ているので、自分の血を引く子供達に、学歴に関しては高い期待はとても抱けないどころか、進路選びには相当慎重にならなければならないことが判ると思います。

ただし、その後に、随分苦労したものの弁理士になれていることを考慮すれば、時間はかかるものの腰を据えて努力をすれば、かなりよい結果が出せるであろうことも推測されます。

さらには、ここまで自分が見事に学生時代に失敗しているので、それを逆に資源として活用することもできると思います。

こうしたことを踏まえて、子供達の将来を考えて行くべきと思っております。