大変ご無沙汰してます。
はなわです。
Facebook、Twitterではこちらよりも先に報告をしておりましたが、
父が8月27日夜に亡くなり、29日に家族で密葬を執り行いました。
27日の23時過ぎに急変の連絡が入ったものの、誰も間に合わず、
夏休みに顔を出した時が父との最後の時間になってしまいました。
4年前の秋に倒れてから、紆余曲折、一進一退をくり返し、最近は
落ち着いた状態だったので顔を出すと普段の父の佇まいでしたが。
大脳出血に伴う後遺症等ままならぬ身体で肺炎にかかってしまい、
8月以降は高熱と血圧低下が続き、薬も効かず、厳しい状況でした。
高熱に苦しむ中で口にした言葉は「コーラが飲みたい・・・」でも、
それすらも叶わないままひとりでひっそりと旅立ってしまった父。
父の延命に関する決断を主治医から迫られる局面もあったので
覚悟はしていましたが・・・享年62、やっぱり見送るには早過ぎる。
そして、残された俺は結局何ひとつ自立などできていないまま、
父に対する悔いと喪失感が時間の経過とともに増しております。
お父さん、お詫びも感謝もなんにも伝えられずにごめんなさい。
あなたの苦悩の毎日を追い詰めることばかりしてごめんなさい。
あなたの寂しかった暮らしに寄り添うこともせずにごめんなさい。
でも、あなたが父親として見守ってくれて俺は誰より幸せでした。
「お前が息子でうれしい人生だった」とあなたは言ってくれたけど、
こちらこそ、あなたが父親でいてくれてとてもうれしい人生でした。
何も聞かず、言わず、黙って守り続けてくれて、本当にありがとう。
そして、あなたがこの世に生まれ、幾度の絶望を味わいながらも
62年の人生を貫いたことに、世界で一番のありがとうを捧げます。
お別れとなってしまった、あの日。
「来るのがちょっと遅すぎたな。」とつぶやいた弱弱しいその声から、
満身創痍の状態であなたが心細い思いをしていたことを感じました。
その反面。
高熱で朦朧としながらも自らで身体を起き上がらせたその姿から、
最後まで「頼れる父親」でいようとするあなたの優しさを感じました。
ごく親しい身内だけで送り出し、小さな箱に収まってしまったけど、
37年分の思い出は永遠・・・これからも彼は俺の偉大な父親です。
密葬後、形見分けをするために整理していた父の私物の中から、
父親として参列できなかった妹の結婚式のVHSが出てきました。
寂しくないようにと妹が父へ渡していたこのビデオ、いったい父は
どんな思いで観て、どんな思いで大事に持ち続けていたんだろう・・・
母と離婚し家を出てからの父を振り返ると切ない思い出ばかりで、
独り身だった晩年の父の心情を知るたびに今なお泣けてくるけど。
「ダイ、ここから先はもう自分自身で乗り越えて力強く生きてゆけ」
これが父から俺への最後の教えなんじゃないかと思っております。
親不孝ばかりしていた俺を愛し続けてくれた父の温もりを励みに、
我々の心の中で生きていく父の分まで笑顔で進んでいかなくちゃ。
数日立ち止まりましたが、今日からいつもの日常生活に戻ります。
でも、お父さん、落ち込んだ時はいつでも会いに行かせてください、
これからの俺の人生、あなたが眠る場所も俺にとっての故郷です。
ここ数年、父の件では本当にいろいろなことがあり悩み続けました、
恥ずかしながら、こちらでも苦しみを吐露させて頂いたりもしました。
旅立った父を想い、偲ぶとともに。
心配して下さった方々へ心より感謝します、ありがとうございました。
2013年9月2日(月) 愛する父の初七日にて
はなわです。
Facebook、Twitterではこちらよりも先に報告をしておりましたが、
父が8月27日夜に亡くなり、29日に家族で密葬を執り行いました。
27日の23時過ぎに急変の連絡が入ったものの、誰も間に合わず、
夏休みに顔を出した時が父との最後の時間になってしまいました。
4年前の秋に倒れてから、紆余曲折、一進一退をくり返し、最近は
落ち着いた状態だったので顔を出すと普段の父の佇まいでしたが。
大脳出血に伴う後遺症等ままならぬ身体で肺炎にかかってしまい、
8月以降は高熱と血圧低下が続き、薬も効かず、厳しい状況でした。
高熱に苦しむ中で口にした言葉は「コーラが飲みたい・・・」でも、
それすらも叶わないままひとりでひっそりと旅立ってしまった父。
父の延命に関する決断を主治医から迫られる局面もあったので
覚悟はしていましたが・・・享年62、やっぱり見送るには早過ぎる。
そして、残された俺は結局何ひとつ自立などできていないまま、
父に対する悔いと喪失感が時間の経過とともに増しております。
お父さん、お詫びも感謝もなんにも伝えられずにごめんなさい。
あなたの苦悩の毎日を追い詰めることばかりしてごめんなさい。
あなたの寂しかった暮らしに寄り添うこともせずにごめんなさい。
でも、あなたが父親として見守ってくれて俺は誰より幸せでした。
「お前が息子でうれしい人生だった」とあなたは言ってくれたけど、
こちらこそ、あなたが父親でいてくれてとてもうれしい人生でした。
何も聞かず、言わず、黙って守り続けてくれて、本当にありがとう。
そして、あなたがこの世に生まれ、幾度の絶望を味わいながらも
62年の人生を貫いたことに、世界で一番のありがとうを捧げます。
お別れとなってしまった、あの日。
「来るのがちょっと遅すぎたな。」とつぶやいた弱弱しいその声から、
満身創痍の状態であなたが心細い思いをしていたことを感じました。
その反面。
高熱で朦朧としながらも自らで身体を起き上がらせたその姿から、
最後まで「頼れる父親」でいようとするあなたの優しさを感じました。
ごく親しい身内だけで送り出し、小さな箱に収まってしまったけど、
37年分の思い出は永遠・・・これからも彼は俺の偉大な父親です。
密葬後、形見分けをするために整理していた父の私物の中から、
父親として参列できなかった妹の結婚式のVHSが出てきました。
寂しくないようにと妹が父へ渡していたこのビデオ、いったい父は
どんな思いで観て、どんな思いで大事に持ち続けていたんだろう・・・
母と離婚し家を出てからの父を振り返ると切ない思い出ばかりで、
独り身だった晩年の父の心情を知るたびに今なお泣けてくるけど。
「ダイ、ここから先はもう自分自身で乗り越えて力強く生きてゆけ」
これが父から俺への最後の教えなんじゃないかと思っております。
親不孝ばかりしていた俺を愛し続けてくれた父の温もりを励みに、
我々の心の中で生きていく父の分まで笑顔で進んでいかなくちゃ。
数日立ち止まりましたが、今日からいつもの日常生活に戻ります。
でも、お父さん、落ち込んだ時はいつでも会いに行かせてください、
これからの俺の人生、あなたが眠る場所も俺にとっての故郷です。
ここ数年、父の件では本当にいろいろなことがあり悩み続けました、
恥ずかしながら、こちらでも苦しみを吐露させて頂いたりもしました。
旅立った父を想い、偲ぶとともに。
心配して下さった方々へ心より感謝します、ありがとうございました。
2013年9月2日(月) 愛する父の初七日にて