困った。
どうしても意味の分からない言葉がある。
そもそもこれは何と読むんだろう。
読めないことには調べようがないのに。
『天手古舞』?『東奔西走』?
なにか参考になる本はないかと書架へと向かう。
でも探し方がわからない。
とりあえず目に付く本を手に取ってみるが、やはり読み方の分からない字は調べようにも見当がつかない。
「なにかお困りですか?」
不意に囁くように小さな声を掛けられて驚いた。
ここは図書館で私語は禁止の場所だから、まさか声を掛けられるとは思わなかった。
振り向いた先、胸元まで視線を下すと栗色の髪が目に入った。
(あの人だ)
俺を見上げる目はとても優しそうで、つい弱音を吐きだしてしまった。
「あ、わからない言葉があって…調べようと思ったけど読めなくて…」
「どんな字?」
差し出された手に甘えてノートを見せる。
覗き込むように近づいた彼女からは石鹸の優しい香りがして、なぜか心臓のあたりがもぞもぞした。
彼女の丁寧な説明のおかげで、漢字の読み方も意味も調べることが出来た。
「ありがとうございました」
「どういたしまして。また困ったらいつでも聞いてくださいね」
「あ、あのっ」
ふわりと微笑んでカウンターへと戻っていく彼女を咄嗟に呼び止めてしまった。
「あの…名前」
「プレートに書いてある名前、なんて読むんですか?」
紺色のエプロンの胸元を見下ろした彼女が、にっこり微笑んで教えてくれた。
「もがみです」
★
夕方4時。
そろそろ彼が来る頃。
なんとなく夕方に彼の姿を目に収めるのが日課になってしまった。
単調な生活の中で起こったちょっとした変化。
それがなんだか楽しい。
カウンターからよく見える自動ドアに視線を向けると、ちょうど彼が入ってきた。
まっすぐに定位置に荷物を置くと、相変わらず長い足を窮屈そうにさせながら椅子に座り、ノートを広げる。
暫くすると、書架の方へと向かっていく様子が見えた。
調べものだろうか。
私も自分の仕事を再開した。
貸出カウンターの人が途切れ、ふと彼の席を見ると、そこは未だに彼が不在のまま。
書架に行ってから随分と時間が経つけれど。
返却された本をワゴンに乗せて、書架の方へと様子を見に行った。
困ったように書架の前に立ち尽くす彼の後ろ姿。
背が高く、筋肉がバランスよくついた上背。
すらりと伸びた規格外に長い手足。
そんな彼なのに、なんだか一回り小さく見えてつい声を掛けてしまった。
「なにかお困りですか?」
聞けば読めない漢字の意味を調べあぐねていたらしい。
少しのアドバイスでコツをつかんだ彼は、あっという間に言葉を吸収していった。
私自身も気をよくして
「また読めない字があったら、いつでも聞いてくださいね」
なんて調子に乗って言ってしまったりして。
そうしたら彼に、ネームプレートに書かれた私の名前を聞かれた。
なんだかくすぐったかった。