おはようございます!

さんくるです。

 

現在は母、

自分の名前もわからず、

私の事も妹だと思ってる。

 

辰男に言わせると

「お前に繊細さがないのが

幸いしたな。

普通の女性だったら

私のこともわからないなんて

って傷ついて泣くだろう。

お前は傷つく『心』がないから」

だそうですよ。

 

そうですか。

そうですね。

 

 

 

何か今回の入院騒ぎで

とても良い母と

とても良い娘

のように

20%増量で思ってもらっていそう。

 

全然そんなことないですて。

今、この年齢・この環境だから

ってだけなのでございますですよ。

なんじゃその日本語は

 

何度か書いていますが

ウチの母は

女女女男男女の6人兄弟で

戦争の時期には

男の子達はまだ小さく

「一家から一人も戦争に出さない」

という状態は

その時代にあっては

許されざることのような

風潮であったため

 

一番上の姉が

従軍看護婦として南方に赴き、

 

終戦直前には

下の弟が学徒動員で

長崎の軍需工場に行き被爆。

 

すぐ上の姉は隣県の学校に出ていて

 

一番下の妹は病弱。

 

そんなこんなで

戦後に適齢期を迎えても

家を出るということは

あまり考えずに、

家を手伝いつつ

銀行に勤め

スポーツ競技も続けていた。

 

父と結婚したのは

30代も後半になってからである。

 

今でこそ40過ぎての出産は

珍しくないけれど、

初産が30歳過ぎてるってだけで

高齢出産とされる時代のこと

もう無理じゃね?

と親戚中から諦められた頃

やっとこさっとこ出来た子どもが

私。

もちろん次は望めなそう。

 

 

何せ母

体育会系

社会生活も

そこそこ経験を積んでからの

子育てである。

 

頭で先に考えて構うので

転ばぬ先の杖どころか

転ばねーよそんな所でってとこも

あーしろ

こーしろ

あーすんな

こーすんな

うるせーうるせー。

 

子どもだった私には

母が私を支配しようとしている

ように感じられ

 

小学校高学年ぐらいから

ずーっと長いこと

母の支配から逃れるべく

暴れ続けていた。

 

つづく

 


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