福島第一原発吉田所長は、本当にヒーローだったのか? | ★総本宮★ HEX大社

福島第一原発吉田所長は、本当にヒーローだったのか?


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吉田昌郎(よしだ まさお)元福島第一原発所長が、2013年7月9日食道がんで死去した。
技術者であり、東京電力株式会社の執行役員でもあった。

吉田氏は、所長在任中の2011年3月、東日本大震災直後、その影響で発生した福島第一原発事故の収束作業を献身的に指揮したことで知られる。


所謂、「フクシマ50」の指揮者である



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海外からも高い賛辞を受け、中国の報道ですら、菅首相に逆らい原発大事故防ぎ、己の身も顧みず働いた所長だったとして、死去を報じた程であった。


吉田氏は2011年3月11日以降、病気を抱えたままで事故収束に向けて第一線に立ち続けた。
休日に帰京する際は通院していたが、同年12月1日付で現場を離れがんの治療に専念していた。
東京電力は、吉田氏の病名公表時に、同氏の3月11日以降の被ばく線量が70ミリシーベルトと許容範囲内だったことから、病気は事故とは無関係との判断を示していた。


吉田氏は現場の最高責任者として首相官邸や本社との対立を恐れずに指揮を執り続けた。
東京電力本店が「首相の了解が得られていない」として海水注入の中止を命じたのに対し、吉田氏はこの指示を無視して注水を継続し被害の拡大を防いだ。


事故当時の現場での対応について、「死の淵を見た男-吉田昌郎と福島第一原発の五00日」を書いた門田隆将氏は、ブルームバーグの取材に対し「吉田氏は日本を救った男だ」と指摘。
「日本を救うという使命を果たした後に余生を楽しむことなく亡くなってしまったことは非常に残念」と語った。
「非常に求心力のある男で、当時の部下数人にも話を聞いたが、みんな吉田さんとなら一緒に死んでも良いと当時考えていたほどだ」と振り返った。


事故当時原子力安全委員会の委員長だった斑目春樹氏は門田氏に吉田氏が対応していなければ、日本は北海道、人の住めない東北・関東、そして西日本に3分割されるような事態に陥っていた話したという。

命令を無視して注水を続けたりリーダーシップを発揮したりした吉田氏がいなければ、「今、東京は人が住めないような場所になっていた」と門田氏は述べた。


谷岡郁子参議院議員は「事故の後、ほとんど休まず帰宅せず現場を指揮しつづけ、作業員の方々を励まし、東京電力本店からの無体な指示に罵声をあげ海水注入をし続けた」と聞いていると述べた


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国内外でも評価の高い吉田元所長の葬儀は家族葬で営まれたが、2013年8月23日お別れの会が青山葬儀所で行われ当時の東京電力会長の勝俣氏ら、旧経営陣らも含め1000人以上が参列したという。
安倍首相民主党・海江田代表の他、福島第一原発の事故当時首相だった菅直人氏らも出席した。



だが、吉田所長は本当にヒーローだったのだろうか_?


ココに毎日新聞の重要な記事がある


-------引用開始------


◆福島第1原発:08年に津波可能性 本店は対策指示せず


2008年に東京電力社内で、福島第1原発に想定を大きく超える津波が来る可能性を示す評価結果が得られた際、原発設備を統括する本店の原子力設備管理部が、現実には「あり得ない」と判断して動かず、建屋や重要機器への浸水を防ぐ対策が講じられなかったことが27日、分かった。


12月に中間報告を出す政府の事故調査・検証委員会も経緯を調べており、研究の進展で得た津波リスク評価の扱いや対応が適切だったかが焦点となる。


東電関係者によると、社内研究の成果である新たな津波評価を受け、原子力・立地本部の幹部らが対応策を検討した。その際、設備を主管する原子力設備管理部は「そのような津波が来るはずはない」と主張。評価結果は学術的な性格が強く、深刻に受け取る必要はないとの判断だったという。同本部の上層部もこれを了承した。


原子力設備管理部は、06年に発覚したデータ改ざんの再発防止のため実施した07年4月の機構改革で「設備の中長期的な課題への計画的な対応や設備管理の統括をする」として新設された。

部長は発足時から昨年6月まで吉田昌郎現福島第1原発所長が務めた


東電は08年春、明治三陸地震が福島沖で起きたと仮定、想定水位5.7メートルを大幅に超え、最大で水位10.2メートル、浸水高15.7メートルの津波の可能性があるとの結果を得た。


東電関係者は「評価結果をきちんと受け止めていれば、建屋や重要機器の水密性強化、津波に対応できる手順書作りや訓練もできたはずだ」と指摘している。


東電広報部は「自主的に試算した内容については、土木学会に審議してもらい、設備に反映させていくつもりだった。学会に審議を要請したのは08年10月で、軽視や放置をしていたわけではない」としている。


毎日新聞 2011年11月28日 2時00分


引用元:http://mainichi.jp/select/jiken/news/20111128k0000m040140000c.html


------引用終了--------


つまり、


1)原子力設備管理部の部長(責任者)は、技術者の吉田氏だった。


2)08年春シュミレーションで15.7mの津波の可能性があるとの結果が出た

 しかし、原子力設備管理部の部長(責任者)であった、吉田氏は、否定し対策を取らなかった


3)その後、吉田氏は、福島第一原発の所長に転出した


なんと、津波による電源壊失の原因は、吉田所長自身が津波予測を否定した結果だという

驚愕の事実である。


原子力設備管理部は「そのような津波が来るはずはない」と主張。

同本部の上層部もこれを了承したという


実際、福島第一原子力発電所事故の冷却設備を襲った津波は、13mだったと見られている




更に、私は福島第二原発に注目した




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アメリカのNRC(原子力規制委員会)の対日支援部長だったチャールズ・カストーの「実際の事故処理と危機管理の点では、福島第二原発の増田尚宏所長こそが本当のヒーローだ」という言葉。


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確かに福島第一と同じく冷却機能喪失という事態に陥った第二でメルトダウンが起こっていれば、日本は復興云々どころの状態ではなかった。


福島第二原発でも、津波が発生電源喪失が発生していた
しかし、所長判断でヘリを飛ばして、仮設電源を引いている


----引用開始----


3月11日の震災直後、ヘリコプターで東電の資材センター(茨城県土浦市)から(ケーブル資材)を運び込んだ

100人を超える作業員が12日未明から2日間、夜を徹して敷設し、冷却に必要なポンプに電源をつなげ、津波で失われていた冷却機能を回復させた。


敷地内には津波の爪痕が残るが、原子炉建屋や格納容器内に損傷はほとんどなく、メルトダウン(炉心溶融)から水素爆発に至った第一原発との違いが際だった。


http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20120209-OYT1T00281.htm


----引用終わり----



この判断は的確だった

結果的に、福島第二原発は大きな事故を起こしていない


第一原発の仮設電源敷設は、東電の社長・会長どちらも不在で、決済がおりるまでに時間が掛かったため、一週間後になったとされてます
これが命取りで、後に来日して福島の事故説明を受けたロシアの専門家たちは、先進国で何故これほど時間がかかったのか??と疑問を述べた件は、有名です

第2原発ほど電源敷設が簡単でなかったのかもしれませんし、第2原発は所長の越権独断だったのかもしれません。

しかし、第2原発は正解でした。


後のインタビューで福島第二の増田尚宏所長は、福島第一原発が13mの津波だったのに対して、福島第二原発は9mの津波だった

1・2・4号機の冷却装置は停止していたが、3号機は幸いにも冷却装置が稼働してた

危機対応のための司令塔である免震重要棟は停電になった

しかし、プラントそのものをコントロールする中央制御室は電気が通っていた


停電で現場に入るのに時間がかかったが、11日夜には各炉の状態を把握し12日には電源回復工事(架設工事)が必要だという結論に達していた

ケーブルやモーターなどの調達に入り、ヘリを飛ばして13日の明け方には、そのほとんどが運び込まれた

当時働いていた約2000人が手分けして復旧にあたった

2日間徹夜突貫工事で、電源敷設して14日に電源回復、冷却機能回復した


2012年春の記者会見では、「福島第一原発と同様の事態(=炉心溶解)まで、紙一重だった」と述べている。


14日まではどちらも冷却機能が壊失していた

一時は格納容器内の圧力の高まりは、第一と同じくベントしなければならない段階まで来ていた。

具体的には、「このまま圧力が上がり続けたら、あと2時間でベントしなければいけない」という状況にまで福島第二も至っていましたという

それ故「紙一重」と述べたのだと...


しかし、第二原発では第一原発の状況を把握しておらず、「途中で第一から『こういうものを運んでほしい』『こういう人間を出してほしい』というオーダーを受けて、実行しましたが、なぜそれが必要なのか、その時直ちには理解できないものも結構ありました」と述べている

しかし、第二原発側では、自身の原発を安定させることで精一杯で、他所を思図る余裕はなかったという


本店は両方の原発と連絡を取りながら、状況を把握しておらず、情報伝達や連携が出来なかった

これも、事態を深刻にさせた原因である


第一原発でも電源を直ちに復旧させる為、ヘリで資材を運び突貫工事していれば、今ほどの惨状にはならなかった筈であった

第二原発では、所長判断でそれを成したが、どうして第一原発では出来なかったのだろうか?


確かにルーチン通りであれば、社長または会長の決済をもって電源敷設という順序だろうが、それを待っている状況であっただろうか_?


メディアがヒーロに祭り上げる動きは、欺瞞である







更に、BBC(英国放送協会)は、こう伝えている


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●第一原発の現場と東電本店の会議映像で全面撤退が話し合われていた

吉田所長から全員に撤退が伝えられたという


●菅首相に東電からベントの必要性が伝えられた

 原子炉が高圧になり爆発する可能し性が出てきたため、炉の配管を開け減圧するということである

 菅首相は、ベントを指示した

 

 しかし、第一原発では実行されず、疑いを持った菅首相が乗り込んだ

 撤退を阻止するために乗り込んだのであり、確約させた(決死隊を組んでもと言わせた)

 菅首相は非情な判断だとも感じたが、結果的に広範囲にわたって人が住めない事態を防いだ


http://www.dailymotion.com/video/xq49do



菅首相の存在は弊害もあったが、東電撤退を阻止したのも事実

撤退指示を一旦出したのは吉田所長だったが、人命重視の観点からであった